ナルシズムから解放されないと健全な運動はできない 2


<fms様>

もし、日本人が本当にキリスト教を復興させるとしたら、
正統的キリスト教は、相当な修正を迫られるということ
はないでしょうか?

正統的なキリスト教ではないですが、日本人になんとなく馴染み
やすい“キリスト教的な”思想としては、スウェーデンボルグや
エマソン、あるいはある種のユニテリアンなどが挙げられるよう
に思います。

<tomi>

遠藤周作は、「日本人が受け入れられるようなキリスト教を」と叫びましたが、私は、そんなキリスト教はないと思っています。

パウロは、「十字架の言葉は滅びる者にとっては愚かだが、救いにいたる我々にとって神の力だ」と言いました。

私は、神の御言葉の働きには、人間の手練手管はまったく役に立たないと考えています。

ですから、私が考えているのは、日本人が、日本人の生まれながらの性質を満足させるようなものを餌に、キリスト教を盛り上げて行くというような自然的運動ではなく、もっぱら聖霊による超自然的運動です。

それは、非情なまでの聖書忠実主義です。

聖書に啓示されていることと矛盾するようなものを切り捨て、聖書に啓示されていることにどこまでも固執します。

聖書の象徴学を強調するのは、けっして聖書から離れて、日本人に合わせるためにそのようなことをしているわけではなく、象徴学そのものが実際に聖書の中に存在するからです。

全体論的な思考を強調するのは、けっして西洋近代の分析的・帰納法的な思考を拒否するからではなく、そういった思考法を踏まえた上で、今日欠けている「世界に対する総合的見方」というものを補完的に用いるということなのです。

「全体論」とか「総合」という言葉を述べると、ロマン主義を連想させる恐れがありますが、聖書が述べている全体論とか総合は、「神の目を通して、神の世界観に立って、被造世界を総合的に見る」ということなのです。

たとえば、ある時、教会の青年会の合宿の帰りにみんなで梅園に行ったことがあります。梅ノ木を見ながら、私が「神様はこういう微妙な色を出すんですねえ。」と言うと、ある兄弟が、ショックを受けたといいました。

なぜかというと、「梅ノ木を被造物として見たことがなかった」から。

クリスチャンは、自分の目がいつのまにか、神様の視点に置かれている。

これが新生体験だと思うのです。新しい被造物となったクリスチャンは、神のしもべとしてまったく心が作り変えられている。だから、すべてのものを神の視点から見る。

みみずが動いていたら、どうしてみみずが生きているのか、と考える。みみずは土地を富栄養化する重要な役割を果たしている。進化論のように、高等生物になれなかった落伍者なんかではない。

神が創造された世界において、重要な役割を帯びて生きている。

こういった「神的世界観によって被造物を再構成する」ということがクリスチャンの使命だと思うのです。

しかし、いわゆる「日本人に合ったキリスト教」なるものは、神の視点で、神の利益のために、神の指図どおりに世界を再編するのではなく、日本人の視点で、日本人の利益のために、日本人の指図どおりに世界を再編することなのですから、同じ「全体論」や「総合」でも、内容はまったく違います。

これは、キリスト教ではなく、「日本教」であり、遠藤周作がやろうとしたのは、神を日本人の幸せや野望のために利用することでしかなかった。

私は、この時代の日本人の「マザコン」的な発想にはついていけない。自分のわがままを寛大な心で受け止めてくれる母なる神を求めている。

日本人の「全体論」や「総合」とは、母性の無限包容に等しい。神は、矛盾もなにもすべて広い心で受け入れねばならない、と神に命令をし、そうならないと、だだをこねる。

こういうところからは文化は絶対に生まれないのです。

ある意味において、文化とは、矛盾や非合理を徹底して排除するところからしか生まれない。

だから、数学的に厳密な思考法を土台に宇宙を機械論的に理解した西洋近代は、自然を分析し、要素に還元し、還元された要素を再構成することによって、人間生活に役立つ様々な文明の利器を作ることに成功した。

いわゆる日本文明の無限包容、命題も反命題もごっちゃまぜにして、わけのわからぬままに止揚し総合してしまう思考方法では、科学は生まれない。

このような違法な思考法や認識論を批判しないままに、総合などやっても、世界の物笑いになるだけだ。

ヘーゲルからこういった東洋的な総合が西洋の中にも侵入したのだが、しかし、西洋には、実証を重んじる人々が必ずいて、ヘーゲル主義が学問の世界を席巻しようとすると、待ったをかける。

こういうバランス感覚がなければ、長期的な文明の進歩など絶対に不可能だと思います。(*)



(*)
西洋思想の弱点は、総合と分析の間の緊張関係を解決できないところにある。

分析が行き過ぎると、「何でも分子原子に分解して個性がなくなるではないか。学者は専門バカになって、学問は、世界を総合的に見れなくなるではないか。」という批判が起きるし、総合が行き過ぎると、「相矛盾するようなものを厳密な検討を経ることなく、批判もせずに、ごたまぜにしてまとめあげ、一つの体系を作ったなんて言うなよ。」と批判される。

この緊張関係の原因は、「人間から出発するという認識論」にある。

人間は創造者ではないので、「総合」を行う権威がないのだ。人間が作った世界観や体系など、誰もそれが正しいと保証してくれない。

世界は神によって創造された、という前提に立てば、総合を行うことは正当である。神の視点に立って、個物と個物を結び付け、体系を作り上げ、総合を行える。だから、「全体論」はキリスト教においてのみ成立する。

近代になって、認識の出発点が人間理性に置かれてから、人間は総合を行えなくなった。だから、「教養」もありえない。

大学時代、ゼミの担当教官が、70年代の学生運動以来、大学院は専門ごとにタコツボ化が進み学際的な研究や授業が行えなくなった、と言っていました。

なぜならば、教官が前提として持つ「世界観」や「総合」と、学生が持つそれとが異なる場合、すぐに争いになってしまうから。左翼には左翼の世界観(つまり宗教)があって、それで学問を再編しようとする。それに対して従来の常識を持ち出しても、互いに対立するだけで、結果は不毛になる。だから、そのような世界観とか宗教とか前提というようなものをひたすら隠しながら仕事をするようになった。

どのグループでもそうだが、世界観や前提が異なれば、そのグループは崩壊する以外にはないのです。

世界観や前提とは、色めがねなのです。同じ花を見ても、黄色いめがねをかけていれば、黄色く見えるし、赤いめがねをかければ赤い色がつく。

なんでも黄色く見える人と、赤く見える人が共通の組織の中でうまくやっていけるはずがない。残るは権力闘争だけです。どちらがその組織でボスになるか。ボスになれなかった人間は、組織から出て行く以外にはない。

だから、もし日本人がキリスト教を立て直すというならば、「世界は人間のためにある」というようなナルシズムは捨てなければならない。「世界は創造者のためにある」という正当な前提に立つ場合にのみ、普遍的な仕事ができるでしょう。

そうでなければ、カルトの二番煎じにしかならない。

 

 

2004年2月12日

 

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