救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する21

 


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2.聖書解釈の手法

 2−1 聖書は、ひとつひとつの聖句が命題的真理であるか?
 2−2 聖書は、背景にある歴史的文化的文脈に即して
     解釈すべきであるか、それとも、聖書テキスト内部に
     おける比較対照によってのみ解釈すべきであるか?

・・・が、浮上してきます。
しかし、富井さまは、おそらく、「聖書の聖句はひとつひとつが命題的真理であり、聖書テキスト内の比較対象によってのみ解釈すべきである」という立場を、絶対譲られないと思います。

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なにも「聖書の聖句はひとつひとつが命題的真理であ」るなんて言っていませんし、「聖書テキスト内の比較対象によってのみ解釈すべきである」とも言っていません。

私が述べているのは、再建主義独自の解釈論ではなく、聖書信仰に立つどこの神学校ででも教えているような正統的な・当たり前の解釈論であって、それを逸脱しようなんて思っていません。

聖書自体もこの解釈論を教えていますよね。

「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。」(箴言30・5-6)

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。」(2ペテロ1・20)

私が山谷様の「天使論」を読んで思ったのは、山谷様がパウロの言葉の背景にあると主張される「後期ユダヤ教の天使論『のみ』」を根拠に、パウロの言葉を解釈するならば、それは、教会の中に「後期ユダヤ教思想」が侵入することを許すことにならないか?ということです。

後期ユダヤ教思想は、イエスがそれを前提に発言されていると思われる個所がありますね。たとえば、山上の説教の黄金律などです。ラビ・ヒレルの教えにそっくりな教えがあります。

しかし、聖書を読むクリスチャンは、「ああ、イエスさまは、ヒレルに影響されているんだ。じゃあ、ヒレルの書物を読んで、教えを取り入れよう!」ということは許されないんです。

なぜならば、イエスは後期ユダヤ教の教えを否定していることを示す個所が聖書には無数に存在するからです。

「安息日に病人を癒すことは違反だ」や「汝の敵を憎め」などどいう教えを否定されましたね。

だから、「イエスは後期ユダヤ教に影響されている」→「後期ユダヤ教思想は聖書解釈の根拠となりえる」と結論できないのです。

ただし、もし、イエスご自身が聖書の中において、その「後期ユダヤ教思想」に基づいてご自身の説を表明されているならば別ですよ。

そうではなく、イエスがまったく聖書の中において触れておられない場合、その「後期ユダヤ教思想」は、霊感されていないので、それを聖書解釈の根拠にはできないのです。

この説明でも誤解されますか?

 

 

2004年1月9日

 

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