幼児洗礼、高等批評、悪霊など


感想をありがとうございました。

>すぐに回答していただいてありがとうございます。それで
>返事の感想を述べたくて、メールを送ります。一つ目の
>感想として正直なところパプテティストの人々のように政
>教分離をして社会はサタンに引き渡すのがいいのか富
>井先生その他多数の再建主義者が言うように社会およ
>び国の法や制度も聖書を基準に考したほうがいいのか
>どちらがよいのか悩んでいます。前者の場合だと社会は
>自然法や自然権、はたまた実定法での統治になってしま
>い、後者だとイエス様は人を殺したい、死ね!と思うだ
>けでおいても律法を破るのだといわれていますがそのよ
>うに思いにおいても死刑を適用するのかどうかがわから
>なくて。律法は実際に例えば外的に人を殺した場合のみ
>適用するならば理解できるのですが。

(1)
人間が罪を犯すと、

(A)神に対して
(B)人に対して

罪を犯したことになります。

もちろん、(A)だけの場合もありますが、対人、対社会的な罪は、同時に(A)をも含意しています。なぜならば、人間のすべての行動は、神に対して責任があるからです。

(A)に関しては、キリストの贖いを信じて、神に対して悔い改めることによって赦されます。

しかし、(B)に関しては、「償い」の義務は残りますので、聖書が定めるとおりに被害者に対して弁済しなければなりません。

たとえば、人からものを盗んだ場合、(A)神に祈って神の法を破ったことを悔い改めますが、それですべて済んだのではなく、(B)被害者に対して弁済する必要があります。

故意の殺人の場合には、死刑になります。

(A)の場合、心の中をも見抜いておられる神に対するものなので、心で「殺したい」と思っただけで罪になりますが、(B)の場合、人間は心の中を見ることができないので、具体的な行動として現われない限り、人を罪に問えません。

法廷で扱う罪とは、もっぱら「行為が証明するもの」に限られます。

(2)
もし、対人的な罪については、聖書の規定は適用されない、というのであれば、神は、「もっぱら宗教的領域、心の領域に限定される神」であると述べているのと同じであり、我々の信じる神とは、「社会的領域に権威のない神」であると告白しているのと同義です。

聖書は、一貫して「神は万物を創造され、それを統べ治めておられる。」と述べているので、当然のことながら、この世界に存在する一切のものについて権威であり、彼の意見は絶対です。

パウロをはじめ、新約聖書記者たちは、様々な社会的な問題について律法を適用しており、人間生活の全般について聖書が権威であると述べています。

「労働に対しては、賃金を払え」とか、「死罪を犯せば死刑に当たる」、「結婚関係はこうでなければならない」、「政治家、統治者の責任はこれこれだ」と述べています。

神を宗教的領域に押し込め、社会的領域については、聖書よりも人間の知恵を優先できるなど、聖書のどこにも書いておらず、それゆえ、このように主張する立場は誤謬ということになります。


>二つ目の感想は私自身大学に入って神様に出会い洗礼を
>受けたためかどうしても幼児洗礼について否定的に見てし
>まいます。ただ全く否定しているのではありません。

救いの根拠を、もっぱら「人間の自覚的回心」に置くことは、「人間理性中心主義」のようなものになり、人間の自律に道を開く危険性があります。

聖書が教えているのは、「神の恩恵中心」であります。

まず、神がご自分の自由な意志「のみ」によって、救われる人と、救われない人を選び、救われる人に恵みを与え、彼(または彼女)を導いて、罪を自覚させ、悔い改めに導かれます。

そこには、人間の意思は一切介入できません。

人間が「救われたい」と切望する思いもすべて神が下賜されるのです。

生まれながらの人間は「霊的死人」です。溺れかかってあっぷあっぷして助けを求めている人ではなく、すでに心臓が止まって、海底10000メートルのところに沈んで鮫に心臓を食いちぎられた人です。助けを求めることもできません。

神は、そのような完全な死人に命を与え、自分が溺れて、救われなければならない人間だということを自覚させます。そして、救いの手を差し伸べるように導かれるのです。

パウロは「十字架の言葉は、滅びにいたる人にとっては愚かだ」と述べています。

生まれながらの人間は、神が投げてくださった浮き輪を蔑むほどに盲目なのです。

それゆえ、成人であっても、幼児であっても、人間は同じように「無自覚」であるという点では変わりがないのです。

どちらも、尊いものとそうではないものの区別がまったくつかない「徹底したばか者」であり、神からの一方的な恩恵を待つ以外に救われるチャンスは存在しません。


>いわゆるマルクスやヘーゲル、カントなどのヒューマニズムの
>大物にドイツ出身の人が多いのも最初にドイツの地に広まっ
>たキリスト教がイエス様を人間だとするアリウス派だったから
>だ考えられると思うのですが。つまり人間主義の思想の伝統
>が昔からあったのかなって。。。。妄想がはいっているかもし
>れませんが。

たしかにそうかもしれませんね。

それから、もうひとつ言えるのは、人間主義がはびこる前には、宗教改革の教えである「恩恵中心主義」「聖書中心主義」の破壊があります。

歴史において、この教えを破壊してきたのは、リバイバル運動です。
リバイバル運動は、「人の救い」「回心」に焦点を置くあまりに、教理とか聖書啓示を軽視する傾向があります。
熱狂の中で、教えや原理、原則などどうでもよくなるという人間の弱さを、サタンは巧妙に利用します。

アメリカにおいて、ピューリタンの聖書信仰や契約主義を破壊したのは、18世紀中ごろの、大リバイバル運動でした(http://www.millnm.net/qanda/yV6zxyJ.htm)。

ドイツにおいては、リバイバル運動を担ったのは、敬虔主義でしたが、この中心であったハレ大学が後に、高等批評の中心地となりました。

「ドイツ三十年戦争後に形骸化した宗教改革に対して、ドイツ敬虔主義が教会刷新を行った。回心運動であったドイツ敬虔主義は、聖書のテキストよりも、生きた宗教体験を最重要視したために、聖書への批判的研究が開始され、ハレ大学が高等批評の中心地となった。また、宗教体験の分析研究は、自由主義神学やカント哲学の発展の前提となった。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/


>それともうひとつ質問がありまして富井先生はサタンおよび悪霊の存在を明確に意識
>して論文を書かれていますが僕も大賛成です。ただひとつ疑問に思ったのはアメリカ
>の改革・長老派系の再建主義者は富井先生のようにサタンを意識しているのでしょう
>か?それとも富井先生独自の解釈なんでしょうか?あともうひとつはアメリカの聖霊
>派も再建主義に賛同しているのでしょうか?全員そうだといいませんけれどどれくら
>いいるのかなと思いまして。もし世界に数億人いるといわれる聖霊派に人達が再建主
>義に共鳴してくれたらすごいことだと思うんですが。

一般に、改革・長老派系の教会は、悪霊をそれほど強調しません。
このような傾向は、聖書から導き出されたものではなく、18〜19世紀に広まった自律的・機械論的宇宙観に由来します。

まず、ヒューマニズムの側は、最初、「神は世界を創造された後、それを遠くから見ておられるだけである」という理神論において、摂理信仰を破壊しました。

一瞬一秒たりとも、神の働きは止まらないと聖書が教えているのに、理神論の影響を受けた人々は、神は創造後、万物に対してノータッチであると考え、その代わり、世界は自然法則によって自動的に動いていると考えました。

理神論は、啓蒙主義に影響を与え、啓蒙主義は、カントにおいて、「人間にとって神は、必要な場合にのみ役に立つ存在でしかない」となり、ついに、19世紀になってマルクスにおいて「この世界は物質だけだ」となり、神は宇宙から完全に追い出されました。

これは、サタンの巧妙な戦略であり、20世紀における未曾有の悲劇は、18〜19世紀における「神排除思想」の果実です。
この神排除の思想は、敷衍して「霊的世界」の軽視につながり、その霊的軽視は、キリスト教の中にも侵入しました。
それゆえ、今日のクリスチャンは、サタンとか悪霊というと、眉をひそめるのです。
聖書を読めば分かりますが、この世界は、「神と悪魔の決戦場」なのです。戦争においてもっとも成功するやり方は、「敵は存在しない」と相手に信じ込ませることです。
相手が敵の存在を自覚しなければ、こちらは自由に敵陣に侵入して、中枢を破壊することができ、体制を乗っ取ることができます。

聖霊派は、サタンを自覚し、悪霊の存在を自覚するため、キリスト教の復興に大きな貢献をしています。
しかし、聖書にもとづかない霊的運動は、容易に相手に利用されるため、教理的にしっかりとした土台を作る必要があると思います。

 

 

2004年2月14日

 

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