『福音と世界』(2003年12月号)栗林輝夫氏のエッセイ「宗教右翼は神国アメリカをめざす――統治の神学、キリスト教再建主義、セオノミー」への反論 その11

 



<K>  だがなぜ律法なのか。律法はイエスの福音によって無効になったのではなかったか。そうした反発に再建主義者は、教会が従来、律法と福音を対立させてきたことが、そもそもの誤りだと主張する。「わたしが来たのは律法や預一言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ五・一七)。再建主義者はこの「完成する」(プレローサイ)を、律法を「強めて」世界に「拡げる」ことと読み取る。新約聖書で廃された葬送儀礼や犠牲祭規則などを除けば、すべての律法は政治や経済、司法の全域にわたって今日も遵守されるべきものだ、というのである。

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(1)
「教会が従来、律法と福音を対立させてきたことが、そもそもの誤りだと主張する」のは、「再建主義者」に限らない。伝統的な改革派神学も同じことを主張する。

カルヴァンは、『申命記講解』においてはっきりと旧約律法を社会に適用させるべきと説いている(ゲイリー・ノース著『カルヴァンはセオノミストだったのか?』(福音総合研究所刊))。

「従来、律法と福音を対立させてきた」のは、主にディスペンセーショナリズムである。

ディスペンセーショナリズムは、「律法の時代」と「恵みの時代」とを、互いに排他的な原理によって支配された時代と考えるから、「律法の時代に恵みはなく、恵みの時代に律法はない」と考える。(これじゃああまりにも現実的ではないというので、最近のディスペンセーショナリストはこのような区別をあいまいにする傾向があるが、創始者たちの言葉をそのまま信用すればそうなる)。

http://www.millnm.net/qanda/dispenr.htm
http://www.millnm.net/qanda/DISPRO.htm

(2)
「再建主義者はこの『完成する』(プレローサイ)を、律法を『強めて』世界に『拡げる』ことと読み取る。」

律法を「強める」なんてことを我々の誰も主張していない。グレッグ・バーンセンは、『キリスト教倫理における神の律法』において、「プレーローサイ」を、「確立する」と訳したが…。

「律法を確立する」ことは、パウロによって奨励されている。

「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3・31)

「律法を世界に『拡げる』」ことも、預言者たちによって奨励されている。

「多くの異邦の民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」(ミカ4・2)

これは、いずれの日にか、「多くの異邦の民」が、「みおしえ(原語では『律法』)」を求めるようになる、との預言である。

(3)
結論:再建主義批判者は、まず、どこまでが従来の教えで、どこから再建主義独特な教えか、教理史を調べて十分に区別できるようになってから批判しよう。

 

 

2003年12月14日

 

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