『福音と世界』(2003年12月号)栗林輝夫氏のエッセイ「宗教右翼は神国アメリカをめざす――統治の神学、キリスト教再建主義、セオノミー」への反論2

 


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(2)故意による不服従。

神を主権者として認めず、その王座から神を除こうとする「革命者」の場合、赦しは存在しません。

「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。」(ヘブル10・28)

弱さによって罪を犯す人は、神を王として認め、神の御国(恵みの契約)の中にいつづけることを望んでいる人であり、革命者ではありませんから回復の余地がありますが、「モーセの律法を無視する」人々は、「真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続ける」人であり、「罪のためのいけにえは、もはや残されていません」(ヘブル10・26)ので、「この地上に居場所」はありません。

ここで、「ことさらに罪を犯し続ける」というのは、弱さによって、罪に対して依存症に陥り、脱出したくても脱出できないという人々ではありません。

立ち直りたいのだがアル中が治らないとか、盗癖が直らないとか、そういう人々に対して、イエスが「かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17・4)と言われているように、我々は悔い改める人々を赦す責任があります。

そうではなく、この個所で言われている「ことさらに罪を犯す人」というのは、「神や御言葉や神の法」を「あざける人」(詩篇1・1)であり、悔い改めず、キリストの十字架の贖いをあざ笑い、神を認めようとせず、むしろ積極的に神の法を破る人々です。

<イスラエル人(新約時代においてクリスチャン)の場合>
そのような人々が、契約の群れ(教会)の中にいる場合は、彼らを除名しなければなりません。教会は、彼らを除名して聖餐を拒む責任があります。また、国家は、聖書に基づく法律が定める処罰に従って、この確信犯、職業犯罪者を処罰すべきです。

<非イスラエル人(新約時代においてノンクリスチャン)の場合>
教会の中にいないのですから、教会の裁きはありません。国家は、(聖書律法を土台とする)法律に規定された処分を実行しなければなりません。

 

 

2003年12月7日

 

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