聖書を前提としない議論は無益である

 

「朝まで生テレビ」とか「しゃべり場」などの討論番組を見ていていつも思うのは、「結局、神の基準を受け入れなければ、人間の知恵を出し合っても結論は出ない」ということだ。
死刑の是非をめぐる議論をいくら繰り返しても、神の基準がなければ、双方それなりの言い分があるわけだから、水掛け論になる以外にない。
実験で証明可能な科学論争とは違って、「意味の世界」「価値の世界」のことについて、議論は無益である。
人それぞれに価値観は異なるからであり、絶対の基準がない世界では、誰も他人の価値観を絶対的確かさをもって批判できないからだ。
聖書は、このような議論を無益と切り捨てている。
「主は、知者の論議を無益だと知っておられる。」(1コリント3・20)
クリスチャンには、絶対の基準がある。
だから、クリスチャンはこのような愚かな議論はしない。
「聖書はこのように述べている。」という一言で終わるのである。
それに対して、「いや、聖書はそのように述べているかもしれないが…」と言い出したら議論はエンドレスになる。
聖書を絶対の権威、前提としないクリスチャンは、ノンクリスチャンと同じように、際限のない無益な議論に巻き込まれるのである。
聖書を絶対的権威である神の言葉として受け取らなければ、議論だけではなく、我々の人生そのものも無益になるのである。
我々は全知ではないのだから、絶対的基準が必要である。
そして、我々の思考はすべて、「そこから」出発しなければならないのである。「その前から」出発すれば、我々の活動、議論、生活はすべて不安と泥沼の中に落ちこむ以外にはないのである。


 

 

2003年05月10日

 

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