救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する19

 


<Y>
そうしますと、キリスト教徒が議会で多数派を形成し、律法を規範法とする司法を構築するようになった場合、キリスト教徒が多数の国民の全体的な合意によって「男女平等」の考え方を廃止し、家庭・教会・職場における男女間の主従関係を「回復」させると共に、同様にして、「万人平等」の考え方を廃止し、奴隷制度を「回復」させることになるのでしょうか?

<T>
(1)
わたしが男女平等について2,3度書いたのですが、もう一度申し上げましょう。

聖書は、神は男女を平等におつくりになられた。男性の命も女性の命も神の御前で平等である。

しかし、社会が機能するために、神は男性に女性よりも高い権威を与えておられる。この権威を無視してはならない、とパウロは述べている。

(2)
「キリスト教徒が議会で多数派を形成し、律法を規範法とする司法を構築するようになった場合、」万人平等、男女平等の原則は保持されますし、奴隷制は否定されます。

しかし、聖書が教える男性と女性の社会機能上の権威差によって、「教会において女性は教えることができません」し、女性が男性の上に立って統治することも『原則として』ない。

<Y>
ところで、以前の議論において、律法に規定される奴隷は、債務奴隷であると、富井さまは説明されていましたが、イスラエル共同体の構成員の間では、債務は七年毎に消滅することになっていますから、英国で近世まで存続していたような「債務奴隷制度」は、イスラエル共同体においては成り立たないのではないでしょうか?
むしろ、律法では、明確に「売買された奴隷」と言われていますから、これは、人身売買による奴隷制度であることが推定されます。

<T>
(1)
再建主義は、永続的債務奴隷制度を否定します。借金によって一生が左右され、自由を失うことは神の御心ではなく、借金から解放されて、建設的な生活を復活できるように救済する制度を主張します。キリストの救いは、我々が罪の奴隷である状態から、負債を赦免されて、再スタートして建設的な人生を歩むために存在すると考えます。

(2)
まず、聖書における奴隷売買とは、「債務奴隷」についてであり、「拉致奴隷」ではないということを知っておく必要があります。

旧約聖書は、拉致犯を死罪としています。

「人をさらった者は、その人を売っていても、自分の手もとに置いていても、必ず殺されなければならない。」(出エジプト記21・16)

これは、イスラエル人、異邦人を問いません。

しかし、債務奴隷について、奴隷売買には、イスラエルの場合と異邦人の場合と区別されていました。

異邦人が奴隷の場合、売買ができましたが、イスラエル人に対しては許されませんでした。

「または、あなたがたのところに居留している異国人の子どもたちのうちから、あるいは、あなたがたの間にいる彼らの家族で、あなたがたの国で生まれた者のうちから買い取ることができる。このような者はあなたがたの所有にできる。あなたがたは、彼らを後の子孫にゆずりとして与え、永遠の所有として受け継がせることができる。このような者は奴隷とすることができる。しかし、あなたがたの兄弟であるイスラエル人は互いに酷使し合ってはならない。」 (レビ記25・45-46)

また、イスラエル人が在留異邦人に身売りした場合には、買戻しの権利があり、自由人に戻すことができました。

「もしあなたのところの在住異国人の暮らし向きが良くなり、その人のところにいるあなたの兄弟が貧しくなって、あなたのところの在住異国人に、あるいはその異国人の氏族の子孫に、彼が身を売ったときは、彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。」(レビ記25・47-48)

これは、「イスラエル人は、神によって救い出された自由人である」ということと、「異邦人は、まだ神によって救い出されていない奴隷である」という基本的な考えがあったからです。

神は、聖書において、イスラエル人を「キリストによる救いを受けた自由人の型」として、異邦人を「キリストによる救いを受けていない奴隷の型」として啓示しておられる。だから、贖いを受けたイスラエル人は、機会があれば、少しでも早く負債から逃れて、自由になるべきである。しかし、贖われていない異邦人は、その本質が奴隷なのであるから、奴隷として扱われても仕方がない、と。

これは、「民族的経綸」にあった旧約時代において、キリストがどのような救いを行われるかを示す実物教育のためであり、このおきてをそのまま現代に適用できません。

超民族的経綸の時代に入ってから、「イスラエルと異邦人」という分け方はもはやできず、この型は、「クリスチャンとノンクリスチャン」の分け方に移行しています。

(3)
それでは、現代において、ノンクリスチャンは奴隷として売買されてもいいのか、という疑問が起きるのですが、私は、そのようには考えません。

(A)
なぜならば、旧約律法において神が債務奴隷制度を許容されたのは、「キリストの贖いの真理を実物で教えるため」であったからです。

「アダムにおいて人類は、サタンの奴隷となったが、キリストによって贖い出されて自由にされ、子の身分を与えられる」という真理を教えるために、イスラエルは自由人として、異邦人は奴隷として考えられた。

しかし、新約時代になって、このような「予型」による実物教育の時代は終わり、「本体であるキリスト」が現われたのですから、そのような「予型」は不要となった。「清い食べ物」と「清くない食べ物」の区別が廃止されたのと同じです。

(B)
また、神は、「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)博愛のお方であり、万人に幸いを提供するお方であるから、「ノンクリスチャンなら奴隷でもいい」と考えることは神の御性質と矛盾する、と考えるからです。

 

 

2004年1月8日

 

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