フルプレテリズム批判1


谷口先生

> 富井先生
>
> 私のレスは私の管理できる時間の関係で富井先生のそれよりもはるかに遅くなる
> ことをご了解ください。
>
> > 正直申しましてフルプレテリズムには非常に危ういものを感じます。
>
> 再建主義の中にいましたら、同じことを反再建主義者の人たちから言われます
> ね。
> ICFでもまた山谷大尉がセカンドハンドの資料を持ち出して再建主義をたたいて
> おられまます。再建主義を客観的に学んでいない人が読むと再建主義は何と
> あぶない、危険な神学なのかと思うでしょう。

 山谷氏は、セカンドハンドですが、私は、直接フルプレテリズムの言葉「そのも
の」を扱っていますので、誤解なさらぬようお願いします。

>
> > (1)
> > 新しい律法が文字によらず、心に書き記されたものであるとすれば、70年以降
> > 、パウ
> > ロの教えそのものも、書き記された権威ではなくなるからです。
> >
> > なぜならば、パウロは、旧約律法を引用して、それをクリスチャンに対して適
> > 用し、
> > 「律法も言うように…しなさい」と教えているからです。
> >
> > パウロの言説が当時の(つまり、70年以前の)クリスチャンに向けられたもの
> > でしか
> > ないのであれば、今日、新天新地に住む(つまり、新しい契約の中にいる)我
> > 々も、
> > このパウロの教えを書き記された権威として読むことができなくなります。
> >
> > 今日流行している、「御霊に導かれよう」とか「文字にこだわるな」的な運動
> > と同じ
> > ものが生み出される危険性があります。
> >
> > 神が、これほど大切に、聖書を霊感を受けた御言葉として保持されてきたこと
> > を考え
> > るならば、70年以降のクリスチャンには、「書き記された権威」はすでになく
> > なって
> > しまった、ということを神が許されたとは考えにくいです。
>
> 新しい契約は心に律法が書かれることだから、文字で書き記されたものは
> いらないとはフルプレテリストのセオノミストは言いません。
> セオノミストですからもちろん文字で書き記された律法を読み、学びます。

残念ながら、フルプレテリズムは、「律法は、儀式律法だけではなく、すべて廃棄さ
れた」と説きます。

「モーセの律法的契約は単に、儀式律法だけではなく、完全に廃棄されました(へブ
ル7:11〜19)。」(バーカー牧師)

「完全に廃棄された」ということは、「律法は神の主権的御言葉としてもはや人間に
とって拘束力はない」と同義ですから、実質的に「文字で書き記されたものはいらな
い」と述べているのと同じです。

「律法は廃棄された」ということは、「アドバイス、参考書としてしか読めない」と
同義であり、もはや「契約の言葉」「法律」ではありません。

それゆえ、フルプレテリズムは、「無律法主義」です。

> 古い契約にどのような問題があったのでしょうか?
> それは律法を行わなければ呪われるという恐怖です。律法学者やパリサイ人は
> 外側では律法を行っているようでしたが、内側はそうではありませんでした。
> 心に律法が書きしるされるとは呪いの恐怖からの律法の行いではなく、
> 1ヨハネ5章3節にあるように、「神を愛するとは、神の命令を守ることです。
> その命令は重荷とはなりません。」ということです。
>
> しかし、古い契約が存続する限りは律法の一点でも犯せば、すべてを犯したことに
> なり、罪責は取り去られないのです。

(1)新しい契約も、律法の一点でも犯せばすべて犯したことになります。

 「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身の
ように愛せよ。』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。
しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって
違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人
はすべてを犯した者となったのです。」(ヤコブ2・8-10)

ヤコブは、新しい契約の下にある人であり、新しい契約の人々に向けてこの手紙を書
いています。
その彼が、「一つ破れば全部破ったのと同じ」と述べています。


(2)古い契約においても、罪を犯したことを悔い改めれば罪責は取り去られます。

「この雄牛に対して、彼が罪のためのいけにえの雄牛に対してしたようにしなさい。
これにも同様にしなければならない。こうして祭司は彼らのために贖いをしなさい。
彼らは『赦される』。 」(レビ4・20)

「また、彼は和解のいけにえの脂肪の場合と同様に、その脂肪を全部、祭壇の上で焼
いて煙にしなければならない。祭司は、その人のために、その人の罪の贖いをしなさ
い。その人は『赦される』。」(レビ4・26)

「また、和解のいけにえの子羊の脂肪が取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を
取り除かなければならない。祭司はそれを祭壇の上で、主への火によるささげ物の上
に載せて焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために、その人が犯した罪の贖いを
しなさい。その人は『赦される』。」(レビ4・35)

「祭司は次のものも、定めに従って、全焼のいけにえとしなければならない。祭司
は、その人のために、その人の犯した罪の贖いをしなさい。その人は『赦され
る』。」(レビ5・10)



(3)古い契約においても、人々は、「呪いの恐怖」からだけではなく、「御言葉を
愛すること」から律法を守っていました。

以下詩篇119編の言葉を引用します。

「私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。
まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。
私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。
私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。
彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいま
す。
あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。私が、あなたのことばを待ち望んで
いるからです。
私にあなたのあわれみを臨ませ、私を生かしてください。あなたのみおしえが私の喜
びだからです。
もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたで
しょう。
私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜
びです。
苦難と窮乏とが私に襲いかかっています。しかしあなたの仰せは、私の喜びです。
私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。
私はあなたの救いを慕っています。主よ。あなたのみおしえは私の喜びです。」



(4)新しい契約においても、人々は、律法を破ることへの恐怖を持つべきとパウロ
は述べている。

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のた
めのいけにえは、もはや残されていません。
ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほか
はないのです。
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみ
を受けることなく死刑に処せられます。
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみな
し、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主
がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。
生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。 」(ヘブル10・28-31)


(5)古い契約と新しい契約の違いは「恐怖からの律法の行ない」ではない。

これらの聖句から分かるのは、古い契約と新しい契約の違いが「律法に対する恐怖か
ら守るか、それとも、神への愛から律法を守るか」の違いではないということが分か
ります。

旧約時代の人々も、神を愛し、「みおしえを喜んでいました」し、律法を恐怖の種と
してだけしかとらえず、それをいやいやながら守っていた、というわけでもありませ
ん。

このような「律法奴隷論」は、ディスペンセーショナリズムです。

旧約聖書と新約聖書の対比を、「奴隷」と「自由」として分けるディスペンセーショ
ナリズムの神学は間違いです。

律法は、自由と解放のために人々に与えられたもので、人々を奴隷化するためではな
い!!!

神は律法をお与えになる時に、まず、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家
から連れ出した、あなたの神、主である。」(出エジプト記20・2)といわれました。

このような宣言の後に与えられた律法が、「人々を縛り付けるためのもの」でないの
は明らかです。

律法は、古い契約においても、「人々を解放し、秩序ある生活を送らせるための神の
好意の法」だったのです。


(6)古い契約と新しい契約の違いは、「モデル」か「実体」かの違いである。

旧約律法における「赦し」は、「モデル」を通じての赦しであり、不完全でした。

「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」(ヘブル10・4)

しかし、それでは、旧約聖書の人々は、「虚しい儀式をやっていたのか?完全な赦し
のないことをやらされて恐怖の奴隷となっていたのか?」という疑問が起こるでしょ
う。

そうではありません。神は、人々に「キリストを待望させるために」これらのモデル
を使用させたのです。

旧約聖書の犠牲制度は、将来現われる実体的贖いの、モデルとして、実物で教育させ
るためだったのです。

それゆえ、人々は、キリストを待ち望みながら、「実質的な贖いを獲得できる」とい
う希望をもって動物を犠牲にしていたのです。

それゆえ、パウロは、ヘブル書7章からの議論において、「新しい契約においては、
『実体』であるキリストが現われたので、古い『モデル』は捨てられた。」と述べた
のです。



まとめ:

古い契約から新しい契約への移行は、「モデルから実体へ」の移行であり、「恐怖に
基づく律法遵守から愛に基づく律法遵守へ」の移行ではありません。

神は古い契約においても、新しい契約においても、「愛の神」「解放の神」であり、
不変のお方です。それと同時に、古い契約においても、新しい契約においても、律法
は、「愛の法」「解放の法」なのです。

 

 

2004年2月24日

 

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