破局直前でないか反省しよう

 


<ストレイ・シープ様>

富井先生の御霊による憂いは私も共有できます。現状を見るにつけ、ショーパフォーマンス化し、商売上手な牧師が日本有数の牧師として祭り上げられている有様。

しかし先生の真摯な訴えに共感する人々は、表に出なくとも、エリヤの7000人のように少なからずいると思います。先生のお働きのために祈らせていただきます。

<tomi>
お励ましを感謝いたします。
まことにまったく同感いたします。
同じように危機感をもっておられる方がいらっしゃることを知らされて本当に感謝いたします。

(1)
昔学生時代に、マルキストから「マルクス主義は、マルクスではない」とか、「ソ連はマルクスから離れた」という言葉を聞きました。

キリスト教が、キリスト教ではなく、「キリスト教のようなもの」になるという現象は、普遍的なもので、キリスト教に限らないと思います。

その原因は、「運動の組織的自律性」にあると思います。つまり、ある立場が、その教祖や教典から離れて、「組織の論理」だけで動くとこのような現象が起こるのでしょう。

ローマ・カトリックなどが、聖地回復などという聖書のどこにも書いていない勝手な考えから十字軍を行ったのはその象徴的出来事でしょう。

どんなに「キリスト教」の看板をかかげていても、組織の中だけに留まって、聖書の御言葉に立ち返ることがなければ、組織の利益が何よりも重要になる。そして、その組織に敵対する者を、あたかも「キリストに敵対する者」であるかのように扱い、「異端審問」とかが行われる。

これは、滅亡の兆候であり、神はこんなキリスト教を滅ぼさないはずがありません。

教会は、常に、聖書に帰るべきであり、有効な批判には耳を傾ける必要があります。そうしないで、批判者をすべて敵対視して退けるならば、反省のチャンスを自ら拒むことになります。

最近よく見受けられる「聖書研究とか学問などにこだわるな」という教えは、「正当な批判をも拒否せよ」と考えるようにいざなう大きな誘惑といわねばなりません。


(2)
じゃあ、クリスチャンは、勉強したり、学問をやればいいのか、というと、必ずしもそうとは言えません。

学問をやってもとんでもない方向にずれ、しかも、「私は勉強してここまでの知恵をつけたのだから、自信がある」という人がたくさんいます。

いわゆる、上述のように、マルクスをして「俺はこんなこと言ってないんだけどなあ」と言わしめる「優秀なマルクス主義者」のような人です(こういうのを読んでtomiはマルクスシンパだというソコツな人がいますので、私はマルキストではないと断言しておきます)。

学問は、人を救うことはできません。

物理学が、原爆を作ったことを見ても明らかです。

問題は、「人間の心」なのです。つまり、「へりくだる心」です。


(3)
しかし、逆説的なのは、「へりくだる」人は、真理を求め、客観性を愛するので、「学問を求める」ということです。

学問をやることによって、視野が広がり、自分の卑小さが見えてきます。

そして、人間の知恵がむなしいことが分かってきます。

本当に正しい方向に向かって学問した人は、必ず「聖書は真理だ」と気づくはずです。

パウロは、神の知識に逆らうことを「高慢」と呼んでいます。

「神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり」(2コリント10・5)

それゆえ、「聖書に逆らうことを信じている」勉強家を見たら、高慢を解決するように導かれなかった人と考える必要があります。

私は、クリスチャンはみな、「私は知恵のない愚か者です。いつあなたから離れるか分かりませんので、私をがっちりつなぎとめておいてください。よろしくお願いします。」と絶えず祈るべきであると思います。

人間が破滅に至る直前とは、「最も成功した」時であることが多く、牧師がおかしくなるのは、教会に人がたくさん集まって、活気が出てくる時であることが多いのです。

だいたいにおいて、このようながけっぷちに立っている牧師は心の中で密かに、「聖書に忠実になれ?大丈夫。これまで○○年も、自分のやり方でうまくできたんだから」と考えています。

説教の中に、「牧会生活40年の私が…」というような、自分の経験に頼っていることを示す文句が頻繁に出てきたら危ないです。

そして、「私が献身していなければ、あなたたちは救われることはなかったのですよ。」などと言い出せば、もうお終いです。

それゆえ、成功した牧師は、常に次のように祈らねばならないと思います。

「神様、あなたは私を必要とはしておられません。私は単なるご道具に過ぎません。たとえ私がこの働きをやめても、あなたは別の人を起こされるでしょう。もし私が不忠実であれば、あなたは私の手から教会員をもぎとられ、他の人にお任せになるでしょう。」

エリヤがバアルの預言者と対決して勝利した後に、大きな霊的反動を与えられたのは、神の恵みと言うべきでしょう。

自分が誰の意見も聞かず、へりくだりに導かれていないと分かったら、捨てられる直前と見たほうがいいので、熱心に祈るべきだと思います。

 

 

2003年12月26日

 

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