互いに受け入れあうための最短コース

 


メイソンの入会の儀式を見ると、とてもじゃないが単なる社交クラブのようなものではないことは明らかです。

ゲイリー・ノースによれば、アメリカのこういった友愛結社(フラタニティやソロリティ)は、キリスト教の契約思想のライバルとして登場した、という歴史的背景があると言います。

18世紀にアメリカを席巻したリバイバル運動は、「感情中心」であり、教理や知識を蔑む傾向が強くありました。

教理が軽視され、信条を基盤に置く契約思想が弱まり、主観や感情が中心的な位置を占めた結果、キリスト教が個人主義化した。

個人主義は、神と自分という縦の関係は意識しますが、自分と他者の横の関係を希薄にします。

教会人の中に、共同体意識が薄れた結果、友愛を求める彼らの心の隙間に、啓蒙主義に由来する「友愛結社」が侵入した。

キリスト教において、縦の関係は残ったが、横の関係は、世俗化した。

アメリカのキリスト教に接した外国人が、「ドライさ」や「そっけなさ」を感じるのは、アメリカのキリスト教が、聖書的な「横の関係」を失っているからだと思います。

アメリカのキリスト教(そして、それに影響された日本のキリスト教も)、聖書的な「横の関係」を回復する必要があり、そのためには、感情中心ではなく、信条や教理を重視する必要がある。

一見すると、「教理を重視するなんて、かえって兄弟姉妹の間の関係を冷やすのではないか?」と思えますが、実は逆なのです。

聖書の契約思想は、三位一体の神に基づいています。

三位一体の神は、ご自身のうちに、社会を持っています。

父、子、御霊の間には、「永遠の愛の交流」がある。

しかし、メイソンなどの友愛結社が信じる、啓蒙主義や理神論に起源をもつ神は、一位一体であり、社会がありません。

そのため、アメリカ社会がキリスト教の代替物として取り入れた友愛結社は、本当の兄弟愛を提供してくれないのです。

アメリカのキリスト教は、聖書的な「横の関係」を失ったままであり、そのため、魅力が半減しています。

この欠陥を補おうとして、日本の教会は、友愛を回復しようと様々な努力を積み重ねてきたが、残念ながら、問題の起源が、「教理中心から感情中心に流れたことにある」ということを見抜いていないため、人間的な「交わり」という弥縫策に終始している。

本当の友愛は、真理を犠牲にしては絶対に回復できない。

今日の教会人が、「論争はやめて、受け入れ合おう」という姿勢を改めない限り、教会は、いつまでたっても互いに「受け入れ合う」ことはできない。

 

 

2004年1月11日

 

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