助ける人を選べ

 


ヒューマニズムの福祉政策の最大の欠陥の一つは、「助ける対象を選ばない」という点にある。

聖書は、はっきりと、「助ける人を選べ」と教えている。

「やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい。…やもめとして名簿に載せるのは、…良い行ないによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。若いやもめは断わりなさい。というのは、彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。…もし信者である婦人の身内にやもめがいたら、その人がそのやもめを助け、教会には負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会はほんとうのやもめを助けることができます。」(1テモテ5・3-16)

ヒューマニズムの福祉政策は、援助者の選別においてあまりにも大雑把である。神学生のとき住んでいたアパートの住人で、元気なのに、まったく仕事をせずに、パチプロで生活し、生活保護を受けている人がいた。また、その隣には、精神病の診断書をもらって生活保護を受けている人もいた。

彼らの8万円の生活費は、ちゃんと社会において仕事をしている人々が稼いでいるわけだが、実際に8万円を稼ぐということは、大変なことである。

利益率10%なら、売上が80万円なければならないわけだが、80万円を売りあげるのは今日のような不景気な時代では血の汗を流す必要がある。

このような血と汗と涙の結晶を、仮病を使って偽の診断書をもらい、もらえない時は、脅かすことすらするような連中に吸い取られるのが、今日の福祉行政なのである。

聖書の支援のあり方は、「顔と顔を合わせた支援」である。

まず、支援の基本は、「身内」による。

「もし信者である婦人の身内にやもめがいたら、その人がそのやもめを助け」なければならない。

次に、そのような支援できる身内がいない場合は、教会が助ける。

「そうすれば、教会はほんとうのやもめを助けることができます」

聖書には、「国が助けるべきだ」とは書いてない。

国が主体となる福祉は、「顔の見えない援助」になるので、選別が行われず、それゆえ、支援者に不必要な負担をかけ、被支援者を堕落させるのである。

少数民族絶滅の最良の方法は、「福祉」である。

かつて勇猛果敢で有名だったアメリカのインディアンたちは、アメリカ政府の福祉によって、労働を止め、援助だけで生活するうちに、酒びたりになり、堕落し、民族として自立できなくなった。

「顔の見えない」福祉は、人を腐らせて、ダメにするのだ。

「やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい。」

 

 

2003年11月18日

 

 ホーム

ツイート

 

millnm@path.ne.jp