侵略戦争なんてない?

 


侵略戦争なんてないのだ、という説がある。
たとえば、朝鮮を併合した理由は、北方からロシアの南下政策があり、日本の領土が侵される恐れがあったから、防波堤として朝鮮を自国の支配の下に置く必要があった。だから、朝鮮併合は侵略ではない、と。

しかし、これは、まったくの屁理屈である。
自分の家に泥棒が入る恐れがあるから、通りに面した隣の家を占領してそこに高い塀を作ったら、自分が泥棒になるだろう。

戦争体験者にこのような屁理屈を言う人々が多いのは、「自分も侵略国の一部であった」という事実を受け入れたくない、という気持ちがあるからだ。

つまり、自我の根底的な部分において、自分のプライドを捨てていないためだ。

これじゃあ、悔い改めが出来ているとは言えない。

だいたい、聖書を最高権威として受け入れることを拒否する人々に共通するのは、「自我の一部を保存しておきたい」という「すけべ根性」である。

これは、「収税人ザアカイ」よりも悪い。ザアカイは、素直に自分がむさぼりの罪を犯して人のものを盗んだと認めた。

イエスがザアカイを受け入れて、パリサイ人を受け入れなかったのは、パリサイ人が実質的に「やもめの家を食いつぶす」ようなあくどいことをやっていながら悔い改めをしていなかったからだ。

誰でも、自分の一番本質的な部分について「自己否定」していなければ、その人はパリサイ人である。悔い改めができていないので、神に拒絶されるのである。

あの聡明な石原都知事が「朝鮮併合は完全な合意によった」という妄言をダラダラと垂れ流しているのは、自分や自国の醜さを認めることができないという根本的な失敗があるからなのだ。

私は、こういったヒネクレ者にはっきりと言おう。

「日本は侵略したのだ」と。

もし侵略戦争がないならば、防衛戦争もない。

防衛戦争という概念が成立するためには、侵略戦争という概念がなければならない。

聖書は、「世界は領域主権の集まりだ」と述べている。

神は、ある時代のある場所において、特定の人間を立てて、人間集団をまとめさせ、彼らを統治する責任をお与えになる。

聖書において、神の世界統治とは、代理者を通じての間接統治であると記されている。

聖書の契約は、支配の契約であり、神がある人間を立てて彼に権限を委譲することによって成立する。

人間の社会とは、それぞれの領域に神が直接主権を委譲することによって成立する小さな領域の集まりである。

この小さな領域に、「聖書的根拠なく」他者が強制的に入っていってそこを占拠するならば、神の刑罰が下る。

ウジヤ王が祭司だけに許された「香をたく」行為を行って刑罰を受け、らい病になった。

アハブが貧しい領民の土地を力づくで奪い、裁かれた。

誰でも、神が定めた他者の「主権領域」を侵す者は、侵略者であり、刑罰に遭う。

もし日本の大陸侵攻が侵略でなかったとしたら、いったい何を侵略と呼ぶことができるのか。

日清戦争以降、日本が中国に押し付けた様々な無理難題が侵略でなかったとすれば、いったい何を侵略と呼べるのか。

自分の罪、自国の罪を素直に認めることができないというのは、自分の本質的な部分において悔い改めができていないことを証明している。

自我を砕かれる必要があるだろう。

 

 

2003年11月24日

 

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