首席判事ロイ・S・モーアを擁護する 2

 

裁判所は立法機関ではない

「十戒の展示は、ドル紙幣に『我々は神を信頼する』という一文が載って以来最大の、自由への脅威である」と考える人々が、首席判事による撤去命令不履行を非難したとしても、それは当然のことであり、何も不思議はない。

連邦裁判事は、この考え方に従って、合法的な命令を発した。もし十戒の展示が、憲法の条項(連邦予審判事はこれを定義できなかったのだが)に違反しているならば、その撤去命令は合法に違いない。

とくに素人の読者にとって理解しずらい点は、なぜ「首席判事の展示は権威の合法的行使である」と述べていた人々が、今、彼を訴える側に回ってしまったのか、ということだ。

この理由は、ほとんどのアメリカ人は、素人、裁判官を問わず、また「自由派」、「保守派」を問わず、我々の司法制度の基礎部分について誤解している、ということにある。

自由派も保守派も、一つ一つの規則(たとえば、十戒の展示が合法であるか)について意見は多様であるかもしれないが、「憲法の意味に関する裁判官の意見(憲法自身ではない)は、アメリカの法である」という点について異論はない。彼らにとって、トンプソン判事の命令(修正個条第一条ではない)は、適法(the applicable rule of law)なのである。

その結果、これらの判事たちは、「己の職務誓約は、事実上、憲法(そして、憲法に準じて制定された法律)に対して忠誠を尽くすという誓約ではなく、司法に対して忠誠を尽くすという誓約である」と考えているのである。

恐らく、ほとんどすべてのアメリカ人弁護士は、「議会は法を作る権限を有するが、連邦裁判所は、特定の事件や係争事項に法を適用する権限しか有していない」という原理を、高校の公民の授業からロー・スクールの卒業時までの間に、忘れてしまうのである。

憲法は、あらゆる立法権を議会に付与している。司法権は、裁判所に与えられている。憲法が明白に語っているにもかかわらず、今日、ほとんどすべての法律家たちが口をそろえて「司法が法律を作る」と言っているのである。

司法に立法権があるという間違った考え方から、「法律とは、憲法が語る言葉ではなく、むしろ、裁判官が憲法について語る言葉である」という誤った考えが必然的に生まれるのである。

先例に関する普通法原理の曲解と「先例拘束力の法則」を通じて、個別事案における法廷の裁定は、その法廷の支配下にいるすべての人間とあらゆる下級裁判所を拘束する法律と化した。

先例の原則と「先例拘束力の法則」の正当な使用とは、「過去の司法裁定は、それ以降の審議において、強制的指導として機能するが、もしそれ自身が法律と矛盾する場合は、拘束力を持たない」ということである。

それは忠誠の誓いではない

司法権力の性質に対するこのような曲解によって、公務員の職務誓約は変化している。その変化は、微妙であるが、しかし、本質的である。それは、もはや法律に対する忠誠ではなく、公務職員(この場合、連邦裁判事)に対する忠誠への誓いとなってしまった。

このような変化は、合衆国憲法第6条には「合衆国及び諸州のすべての裁判官は、誓約または無宣誓証言によって拘束される」と記されているにもかかわらず、起こっているのである。

州の裁判官も連邦の裁判官も、同じ法律に対する誓約によって拘束されている。その法律とは、憲法であり、「それに順じて作られた諸法律」である。アラバマ州憲法は、職務誓約を規定した次の合衆国憲法の規定を満たしている。

すなわち、「私(ロイ・S・モーア)は、市民であり続ける限りにおいて、合衆国憲法及びアラバマ州憲法を守ることを厳かに誓う。また、私は、これから就こうとする職務を忠実かつ誠実に力を尽くして果たすことを誓う。神よ、我を助けたまえ」。

憲法に対する忠誠を誓約することと、人や人々に対する忠誠を誓約することの間には、本質的な違いがある。

英国女王の僕が誓う軍への入隊宣誓と、アメリカ合衆国の市民が誓う市民認定宣誓を比較してみよう。

たとえば、カナダ人は次のように言う。

「私、____________、は宣誓(厳かに宣言)する。私は、カナダの女王である女王エリザベスU世陛下と、合法的相続者と継承者への忠誠と誠実を誓う…神よ、私を助けたまえ(宣誓の場合削除)。」
他方、アメリカ人は次のように言う。

「私、____________、は厳かに宣誓(もしくは、確認)する。私は、合衆国憲法を支持し、すべての国外及び国内の敵から守る。私は、合衆国憲法への忠誠と誠実を誓う。私は、法律と軍法会議統一法典に基づく、合衆国大統領の命令と私の上に定められた公務職員の命令に従うことを誓約する。神よ私を助けたまえ。」

女王に対する忠誠の誓約は、領主への忠誠の宣誓(an oath of fealty)に属する。そのため、今日でも、英国の裁判所の一部では、弁護士は、裁判官や最高裁判事のことを「私の主」とか「私の女主人」と呼ぶ。

女王は、戴冠式の宣誓によって「神の法を守り、福音を真正に告白」しなければならない。しかし、もし彼女がそれに違反すればどうなるのか。彼女の僕たちや臣下たちは、彼女の言葉を法律の最終的解釈として受け入れなければならないのだろうか。

彼らの宣誓文を読むと、そうしなければならないと暗示されている。彼らは、個人的判断を下す義務を与えられていないのである。

女王に仕える公僕は、思想と行動の独立性を奪われているので、不幸な生活を送っている、と想像する人がいるかもしれない。実際には、それは女王の公僕の生活を容易にしているのである。たとえ女王の命令が自分の良心と法律に矛盾していたとしても、彼らはそれに従うことに困難を覚えないですむ。

なぜならば、彼の誓約は、女王に対するものであって、法律に対するものではないからである。
女王の命令が法と正義に反するものであった場合、下級公務員は、自分が「権威に対するより高い倫理的基準に従うべし」という原理に従っていることを盾にして良心の呵責を鎮めることができるのである。

何よりもまず、彼らはロンドン塔に収監されることなく、しかも、「私は、臆病風を吹かせたわけではなく、高貴な行動を取ったのだ」と自分を納得させることができるのである。


 

 

2003年10月08日

 

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