信徒を失うことを恐れるな

 

教会成長学の悪い影響の一つに、牧師に「教会は数的に成長し続けなければならない」というノルマを課すところにあります。

今年が30人なら、来年は50人、10年後には100人…というように、数的成長が至上目的になってしまうのです。

会社の場合には、このように数的成長を至上目的にすることは間違いではありません。売上を継続して伸ばすことを目標に毎年がんばることは会社の場合間違いではありません。

しかし、教会の場合は、このような数的成長を至上命題にすることはできません。なぜならば、教会にとって、数的成長は、成長の諸要素の一つに過ぎず、むしろ、主要な目標は、質的成長にあるからです。

数を気にするあまり、教えについていいかげんになってしまう教会が増えています。これは本末転倒です。教えは、聖書から絶対に離れてはならず、その意味において、不変でなければならないのです。

教えの純粋性を維持することこそ、教会にとって至上命題とすべきです。それは、教会がキリストの花嫁だからです。もし、教えについていいかげんであれば、教会は姦淫者になります。姦淫者の特徴は、「忠誠なんてどうでもいい。気に入った時に気に入った相手を見つければよいのだ」と考える点にあります。つまり、自分の欲望を中心に世界を回そうとするところにあります。

現代世界の風潮は、「人間の幸せこそ世界の目的である」というヒューマニズムにあるので、教会は注意しないと「人間の欲望中心」になり、忠誠心を奪われてしまいます。

姦淫の教会は、聖書が何を述べているかに無頓着です。聖書が何を述べていたとしても、自分の考えが優先されるべきだ、と考えています。そして、教会の人数が増えるためなら、平気で教えを犠牲にできます。

本当の教会を作りたいならば、牧師は、教えを曲げてはなりません。教えを曲げないために頑固者とか狭量とか偏執狂とか呼ばれてもへこたれてはなりません。それによって、教会員の数が激減しても、めげてはなりません。

いや、むしろ、質的に成長する過程において、教会は数的衰退を経験しなければならないでしょう。これは、神からの試練です。神は、私たちの忠誠心を試しておられるのです。数にとらわれて、教えを曲げるかどうか試しておられるのです。

今日、千人教会とかスーパーチャーチと呼ばれる教会を見てください。それらは、きまって聖書的教理について無頓着です。彼らは人集めのために真理を犠牲にしたのです。このような教会の牧師は、最後の審判において大きな叱責を食らうでしょう。滅びてしまう人もいるかもしれません。

本当の教会の成長とは、大きくなった群れを何度も散らす覚悟のある牧師しか享受できないでしょう。なぜならば、サタンは、群れの中に必ず毒麦の種をまいておくからです。毒麦は生長すると、必ず「先生、聖書にこだわりすぎるんじゃないですか?」とか言い出します。その時、信徒を失うことを恐れて、「そうですね。たしかに聖書はそう言っていますが、あなたの言うように、この教えは、今の時代には硬すぎるかもしれません。」と基準を緩めるならば、教会は毒麦に占領されます。

毒麦に占領された教会など、イエス・キリストにとって何の役にも立たないので、滅ぼされます。だから、教えに関して妥協することは、長い目で見ると自殺行為なのです。

教会は、「真理の忠実な管理者」であるべきです。アパートの管理者が、勝手に建物の壁の色を変えることができないように、教会は聖書の真理に脚色したり、何かを付け加えたり、取り去ったりすることはできません。

数的成長を至上命題にする教会は、早晩数的にも衰退する運命にあります。


 

 

2003年08月18日

 

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