信仰を前提にしない議論は無益

 


>寄せ集めた人が改作すればそれなりに一貫したものになりますよ。

寄せ集めた多神教者たちが、なぜ一貫して「一神教の神」を描き出そうとしたのか、まったく意図が不明ですよね。

多神教者たちは、多神教者としてやっていけばよかったのではないでしょうかね。

なぜそれまで一神教の神を作り、それらしく装う必要があったのだろうか?

>それに、旧約聖書においても多神教的な部分はあります。
>エデンの園で、人間が知恵の木の実を食べたので、
>主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を
>知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って
>食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、
>彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取ら
>れた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、
>命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、
>きらめく剣の炎を置かれた。(創世記 3: 22-24)
>なんていうのは神が複数いることを示しています。

これは、多神教を意味するのではなく、三位一体を表すのです。
神はお1人であるが、三つの位格を持ち、永遠の昔から、その位格の間には愛と謙遜のコミュニケーションがあった。

「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ17・5)


>それに、新約聖書の記述のキリストはミトラ教(Mithraism)
>の救世主にそっくりですよ。ミトラ教の救世主も処女懐胎し
>て、処刑後3日後に復活するんですね。福音書はミトラ教の
>盗作です。

その理屈で言えば、ミトラ教は、旧約聖書の盗作とも言えるわけですよね。
だって、旧約聖書などには、救世主は処女懐胎して、死後3日目に復活すると書いてますからね。

そっくりだ、というのが証拠になるならば、オリジナルを一つだけを挙げて、「これこそ起源だ」と言っても仕方がないでしょう。

ミトラ教の成立が仮に前2000年から前200年頃だとすると、旧約聖書宗教の成立は、前4000年から前400年頃なわけだから、歴史からすれば、圧倒的にミトラより古い。

ミトラが旧約聖書の信仰を真似たとするほうが適切でしょう。

疑いの目を持ってみれば、なんでもそのように見える。
まず、信仰から出発する気がなければ、議論しても時間の無駄です。

あしからず。

 

 

2003年11月19日

 

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