心を尽くして主に拠り頼め

 

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(箴言3・5)

主に信頼するということは、一つの仕事である。

信頼するというと、誰かに寄りかかることだから、何か楽なことのように誤解されやすいが、まったく違う。

信頼することは、エネルギーがいるものである。

自分が他人の信頼を勝ち取るのにかなりの努力が必要であるのと同様に、自分が他人を信頼することにもかなりの努力が必要である。

人間の生まれながらの性質は、「不信」である。我々は、疑い深いものである。失敗することや、傷つくことを恐れるため、我々は容易に人を信用しない。これは、一面において正しい態度だと思う。聖書は、だれでもかれでも簡単に信用してはならない、と教えている。我々は、「狼の中に送り込まれた羊」である。

しかし、こと神に関する限り、不信は罪である。

神を信頼するという場合に必要なのは、「心を尽くす」ということである。

つまり、最大の努力をして神を信用せよ、ということである。

ということは、裏返せば、神を信用することは簡単にできることではない、ということでもある。

神は我々の「信用する力」を試される。

祈れば、すぐにかなえられることばかりであれば、「信用する力」は育たない。

神は成就の時を遅らせたり、期待はずれの結果を出して、我々を訓練されるのである。

忍耐力のない人は、神を信用する人にはなれない。どんなに期待はずれの結果が出ても、成就の時が遅れても、あたかも神などこの世に存在しないかのように思える時でも、信頼して待つことができなければ、信仰は訓練されない。

ノンクリスチャンの時代には、「世の中努力次第でどうとでもなる」と信じていた人も、クリスチャンになると、どんなに努力しても結果がでないという状況に日常的に遭遇する。

これは、我々を薄っぺらな人間にしないための神の配慮である。

神は、クリスチャンに対してご自身の「絶対主権」を悟らせるために、あえて努力や力などが水泡に帰すような体験をさせるのである。

神と間近に出会う前のヨブは、「神の御前に完全であれば、祝福され、悪いことは起こらない」というような薄っぺらな信仰の持ち主であった。しかし、完璧な生活をしていたにもかかわらず様々な試練に遭遇したという体験を通じて、彼は、「すべては神の一存で決まる」ということを学んだのである。

この体験をしていない人は、神の選びの教理を聞くと拒絶反応を起こす。「生まれる前から救いと滅びが予定されていた?なんてひどい話だ。」と憤るのである。

しかし、自分の努力とか聖さとかとまったく無関係に次々と試練が起こり、身も心もボロボロになった時に、彼は、神を絶対主権者として受け入れることができたのである。

クリスチャンの品性や理解力は、理不尽な出来事を通して練り上げられるのである。裏切りとも思える出来事を通じて、本当の筋金入りの信頼が養われていくのである。


 

 

2003年09月08日

 

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