フルプレテリズムへの批判

 

便宜上、プレストン師をPとし、富井をTとします。

<P>

Q: 聖書は来るべき世(時代)には、めとることもとつぐこともないとあります。プレテリスト(過去派の人々)はどのように来るべき時代が訪れたといいながら、人々がまだ結婚していることを説明するのでしょうか?

A: まず初めに、聖書がこの世(時代)と来るべき世(時代)と呼んでいることがらについて考えてみましょう。これは非常に大切なことです。ほとんどの未来派の人々は聖書が「この世(時代)」と呼んでいるのは、現在のクリスチャンの時代であり、それは「来るべき世(時代)」の到来とともに終わると考えています。これは基本的な間違いです。

ルカ20章で、イエスは復活と来るべき世(時代)について論議しておられます。イエスは復活に反対するサドカイ人たちの仮説に向き合っておられることに注意しましょう。彼らは逆縁婚の実践について話しをしています。イエスはそれに答えて、「次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いたちのようであり、また、復活の子どもとして神の子どもだからです。」と言われました。

どうぞイエスが「この世の子らはめとったり、とついだりする」と言われたことに注意してください。イエスは直接、逆縁婚の問題に触れておられるのです。決して普遍的な人類の経験に言及しておられるのではありません。プレストンは結婚しているではないか、だから復活は起こっていないのだと個人攻撃するような議論は間違っています。なぜなら、このような議論は問われている結婚問題が逆縁婚の律法であるという事実を全く無視しているからです。

イエスが生きておられた世(時代)は逆縁婚が律法だった世(時代)だったのでしょうか?もちろんそうです。それは、シナイにおいてイスラエルに与えられた律法の時代だったのです。その世(時代)はモーセの時代だったのです。

( 申命記25章)

ここで3つの大切なポイントを挙げさせてください。

1:聖書は「この世(時代)」と「来るべき世(じだい)」のたった2つの世(時代)のことしか語っていません。

2:イエスは「この世(時代)」はモーセの時代、そして、来るべき世(時代)はメシアの時代、新しい契約の世(時代)だと教えられました。

3:イエスはモーセと律法の「この世(時代)」が終わることと、来るべき世(時代)には終わりがないことを信じておられました。

上述したことの本質的真理には疑いの余地はありません。新約聖書は絶えずモーセの世(時代)の終わりについて語っています。しかし、イエスと新しい契約の世(時代)には終わりがないことを繰り返し確約しています(ルカ1:32〜35、マタイ24:35、エペソ3:20〜21)。ですから自問していただきたいのです。教会の時代に終わりがないのなら、人はどうして今のクリスチャンの時代の終わりについて教えることが可能なのでしょうか?

<T>

イエスが「めとることもとつぐこともない」というのは、逆縁婚(レビラート婚とも言う)についてであって、普遍的な結婚についてではない、という説明はこじつけに思えます。

なぜならば、イエスは、復活のからだは、「御使いのようだ」と言っているからです。

御使いのようだ、と言明した時点で、イエスは、「私が述べているのは、レビラート婚についてだけではなく、普遍的な結婚についてである」と明言されたことになります。

もしイエスが「レビラート婚のような結婚はもはや復活のからだにおいては行われない」ということを言おうとされたのであれば、もっと結婚の型に関する言及があるはずです。「そのような形の結婚は旧い皮袋であり、新しい皮袋はこうです」というような内容の言葉で返したことでしょう。

しかし、「御使いのようである」は、レビラート婚に対する否定の発言ではなく、結婚そのものに対する否定の言葉です。

というのも、御使いは、性別がなく、結婚しません。御使いは、「仕える霊」であって、殖える必要がないと、神によって定められているからです。

イエスが、このように結婚制度とは無縁の存在である御使いを引き合いに出したことは、レビラート婚にターゲットを当てたわけではなく、結婚全般、結婚制度そのものを問題にしたからです。


<P>

さて、ルカ20章にあるイエスの教えをさらに詳しく学びましょう。

来るべき世(時代)には、

1.) 人々はめとりも、とつぎもしません。

イエスのおられた「この世(時代)」はどのように保たれたのでしょうか?それは結婚によってです。しかし、イエスは来るべき世(時代)にはこのケースは当てはまらないと言われました。
パウロはモーセの時代に続く時代には、キリストにあって「男も女もない」(ガラテヤ3:28)と言いました。もし、キリストにあって男も女もないならば、どうしてめとったり、とついだりすることがあるでしょうか?さらに、イエスは来るべき世(時代)には逆縁婚はその時代の習慣ではないと言われました。逆縁婚はイエスにある新しい契約の時代に実践されるのでしょうか?もしそうではないなら、来るべき時代は来ているのです。

<T>
「この世(時代)」が、結婚によって保たれ、「来るべき世(時代)」はそうではない、というのは明らかに聖書全体の主張と矛盾します。

パウロは、新約聖書全体において、結婚関係を重視しており、それは「キリストと教会」を象徴する基本的な制度である、と述べています。夫の義務と、妻の義務、子供の義務について記しています。

「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。 」(1コリント7・3-4)
「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。」(エペソ5・23)
「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」(エペソ5・24)
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5・25)
「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」(エペソ5・28)
「それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」(エペソ5・33)
「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」(コロサイ3・18)
「夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。」(コロサイ3・19)

また、もし結婚関係が新約時代において世界の保持の手段でないとすれば、「地を従えよ」との命令と、それに続く結婚制度の成立は、新約時代においては無意味だ(もしくは、軽くなった)ということになってしまいます。しかし、ご存知のとおり、再建主義をはじめとする改革主義の立場は、「地を従えよ」との命令は旧約時代にのみ適用されるもの(もしくは、ディスペンセーショナリズムの「統治の時代」だけに適用されるもの)とは考えず、新約時代のクリスチャンも、地を従え、世界をキリストの御国として回復する責任がある(文化命令)と考えます。そして、この文化命令を遂行する上で、家庭は中心的な役割を果たさねばならないとします。

もし、このプレストン師の考えを適用すると、文化命令と結婚制度に関して、聖書は、もはやクリスチャンに明確な指針を与えることができない、ということになってしまいます。

また、旧新約の契約的断絶という問題も生まれてきます。

プレストン師の立場は、旧約時代と新約時代の間に必要以上の断絶を生み、旧新約の契約的連続性を損ない、ディスペンセーショナリズムと同じような悪い効果を生み出します。

ディスペンセーショナリズムは、旧約聖書と新約聖書、律法と福音の間に、非聖書的な断絶を作り、それによって、現在のクリスチャンが、律法を参照しなくてもよい、律法を守るか守らないかは関係なく、祝福と呪いも行ないに左右されることもない、という無律法主義を生み出しました。

しかし、イエスやパウロの言葉は、旧約聖書と新約聖書の間に連続性を認め、クリスチャンであっても、旧約聖書に基づいて神の御心を理解すべきだ、といいます。

「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3・31)

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(マタイ5・17-19)

プレストン師のフルプレテリストの解釈を徹底的に適用すると、ディスペンセーショナリズムの二の舞を演じることになりかねません。

というよりも、プレストン師自身が、ディスペンセーショナリズムの背景で育って、そのため、旧約と新約の連続性を認めない立場を引きずっているのかもしれません。


<P>

2.)来るべき世(時代)には彼らは死なない 。

死はモーセの世(時代)の常態でした。(ローマ7:7以降、2コリント3:6以降、ガラテヤ3:20〜21)それとは対照的に、イエスにある新しい契約は永遠のいのちを与えます。ヨハネ8:51、ローマ6:23、ローマ8:1〜3は罪と死の法則からの自由です。

<T>

たしかに、キリストにつく人々は、罪と死から解放されています。
しかし、それは、「実際的な」解放ではなく、「法的な」解放です。
もし「実際的な」解放であると断言してしまえば、我々クリスチャンは偽善者になります。

我々は日々罪を犯す者です。また、この宣言をしたパウロ自身もローマ7章において「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」と述べ、さらに、「内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私をからだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」と述べています。

つまり、もし、パウロが「来るべき世」においてクリスチャンは罪と死の法則から自由になったと述べているとするならば、その意味とは、「実際的な」解放ではなく、「法的な」解放であり、「決定的な」それではなく、「漸進的な」それであるということです。

フルプレテリストの立場に立つと、全歴史を「この世」と「来るべき世」との2つだけに排他的に分けることによって、このような区別が行われず、それゆえに、細部に矛盾を無数にかかえこむことになります。

聖書は、たしかに、「この世」→「来るべき世」という分け方をしていますが、しかし、「来るべき世」は、必ずしも「完璧な世」ではないとも述べているのです。

私の意見では、聖書は、「来るべき世」は全時期を通して一様なのではなく、2つの時期「からだの復活の前」「からだの復活の後」にさらに細分されます。

つまり、からだの復活の前の時代は、「暫定的な状態」の時代、「法的回復の」時代、つまり、法的な立場が回復し、法的に復活し、不死なのだが、なおも罪を犯し、肉体の死を体験する時代であり、からだの復活の後は、「決定的な状態」の時代、「実質的回復」時代、つまり、実際的にも復活し、不死になり、もはや罪を犯さず、からだの死をも体験しない時代である、と。

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この、「来るべき世界」の中に2つの時代があるとするか、それとも、ないとするかが、パーシャルプレテリストとフルプレテリストの違いであろうと思います。

パーシャルプレテリストであった頃のチルトンの意見を参考にすれば、黙示録20章の千年王国は「法的回復の」時代であり、21章の新天新地は「実質的回復の」時代です。

「千年の終わりにノンクリスチャンが復活する時に」(20・5)、携挙があり、クリスチャンのからだが復活し(20・11-15)、その時に、クリスチャンは御使いのようになり、めとったりとついだりすることがなくなり、からだの死も罪も消える、と考えます。

この区別をすれば、私たちは、無理に「不死だ、罪を犯さない」と言い張る必要はなくなります。



<P>

3.) 彼らは神の子らであり、復活の子らです。
モーセの時代の下では、神の子らは結婚と誕生と教育によって生み出されました。新しい契約の下では、子どもたちは信仰によって生み出されます。「あなたがたはみな、信仰によって神の子どもです。なぜなら、キリストにあるバプテスマを受けて、キリストをその身に着たのです。」そして教えられ、生まれます(へブル8:6)。
ローマ6章4節以降で、パウロはバプテスマにおけるキリストにともなる死、葬り、そして復活、神の子を生み出し、死からいのちに移る、信仰による復活について語っています(コロサイ2:11〜13)。

ですから、イエスが言われたすべての構成要素は「来るべき世(時代)」はキリストの新しい契約の世界の中に見出されるという特徴を示します。そして、新しい契約の世界はイエスが生きておられたモーセの世界に続くということは言うまでもないでしょう。
私の最後の論点は、2つのことを証明しました。聖書は「この世(時代)」がクリスチャンの時代とは呼んでいないこと、それは事実モーセの時代、シナイでイスラエルに律法が与えられた時代であることを証明しました。このことは、明白に来るべき世(時代)、復活の世(時代)はクリスチャンの時代だということを意味します。

第二に、イエスの「この世(時代)」の終わりに復活は起こり、「この世(時代)」がモーセの時代だったのであり、紀元70年のエルサレムの崩壊の時にその時代は終わったのですから、このことは紀元70年のエルサレムの崩壊の時に復活は起こったということを意味するのです。

<T>

繰り返しになりますが、「来るべき時代」をクリスチャンの時代とするのも間違いではないですし、「この時代」をモーセの時代とすることも間違いではありませんが、しかし、「来るべき時代」は、けっして一様なものではなく、そこにサブカテゴリーがあるのです。

まったくサブカテゴリーが存在しないとするならば、聖書の無数の個所を説明できなくなります。

「新天新地」にも2つあり、イザヤ書65-66章の「死がある新天新地」と、黙示録21章の「死がない新天新地」があります。

結婚制度がある時代と、それがない時代があります。

クリスチャンが罪を犯す時代と、犯さなくなる時代があります。

死がある時代と、死がまったくない時代があります。

病がある時代と、病がまったくない時代があります。

涙と痛みがある時代と、それらがまったくない時代があります。

敗北がある時代と、それがまったくない時代があります。

クリスチャンが必ずしも王とはなれない時代と、完全に王となる時代があります。

サタンが活動できる時代と、まったく活動できなくなる時代があります。

フルプレテリストの立場に立てば、今日我々が生活する世界は「法的にだけではなく、実際的にもキリストの王国である」ということになり、もはや「サタンや悪霊との戦い」は幻想であり、それゆえ、エペソ書6章の次の命令も紀元70年以降に生きている我々にとってむなしい言葉になってしまうのです。

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。 (エペソ6・11-13)

しかし、現実に我々は、日常生活においてサタンとの戦いを経験していますし、それを幻想だなどと片付けることはできません。

この点について、おそらくフルプレテリストは、納得のいく説明はできないでしょう。


 

 

2003年07月30日

 

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