全世界を聖霊の清水で満たす働きが始まった

 


我々を教育した世代のクリスチャンは、中立の幻想を抱いている。

つまり、この世界には神でもなくサタンでもない中立の領域が存在し、そこにおいて神の主権を確立する必要がない、と考えるのである。

私の神学校の教師はみなこのような思想の持ち主であった。

そのため、文化人類学や進化論的な社会学、政治学、経済学をそのまま受け取って、それをクリスチャン子弟に教育し、また、講壇においても語ってきた。

このように、我々を教育した世代の人々は、サタンの策略を知らぬきわめてナイーブな人々だったのである。

だからといって、我々は、彼らを軽蔑してよいということではない。我々は、キリスト教の基本を教えてくれた諸先輩を尊敬すべきである。

しかし、その悪い部分は真似るべきではない。

アメリカの帝国主義の復活をもろ手を上げて賛同するアメリカのクリスチャンの脳天気は、アメリカのクリスチャンが牧師や教師から、文明批評をきちんと手ほどきしてもらっていないからである。

そもそも彼らを教える立場にいる教師たちそのものが「知恵」というものを神学校で教えられていなかったのである。

哲学を学び、古代から現代にいたる思想の流れを学び、そこにサタンがどのように働き、世界の乗っ取りを図ってきたかを学ばなかったからである。

戦争がおこっても現象のことしか知らず、その背後に流れる思想的背景まで教えてもらってこなかったのである。

つまり、近代の神学校教育は根底において的外れで、無能だったということである。

その証拠に、この世界の本質は神の勢力とサタンの勢力の対決であるという理解を持っている教師がどれだけいるだろうか。

聖書がはっきりと教えているこの中心的基本的本質的教えをいったいどれだけの人々が神学校で学んだだろうか。

私がはじめてクリスチャンによる文明批評に出会ったのは、フランシス・シェーファーの『そこに存在する神』(いのちのことば社)という本においてであった。

歴史を概観し、歴史の見方、ものの考え方の基本を教えてくれたのは、この書物であった。

しかし、シェーファーは、残念ながらラッシュドゥーニーの間接的弟子であるにもかかわらず、多くの面において欠陥があった。

彼は、セオノミーとポスト・ミレというきわめて重要な点において、まったく理解していなかった。

それゆえ、彼の文明批評には解答がないのである。ヒューマニズムを批判するが、「それでは、ヒューマニズムに代わって世界を支配する原理は何か?」という質問に答えることができなかったのである。

「敵が攻撃してるぞ〜!」と叫ぶだけで、「それじゃあ、何で対抗できるの?」と聞かれても答えられなかったのである。

これが、「福音派の限界」である。セオノミーとポスト・ミレに立たない改革派の限界でもある。

カリスマ・ペンテコステ派は、「神とサタンの戦い」を教えてくれたので、非常に核心をついている。しかし、それでも、「何をもって対抗すべきか?」「我々は歴史において勝利するのか?」という質問には答えてくれなかったのである。

つまり、これまで、キリスト教は、近代ヒューマニズム思想、とくに、マルクス主義に対抗できるだけの首尾一貫した世界観を持たなかったのである。

マルクス主義は、「世界の王は人間であり、歴史は、人間王国の完成に向かって必然的に前進している」という勝利の世界観を持っている。

それゆえ、我々を指導した世代の人々は、マルクス主義に熱中したのである。マルクス主義は、宗教である。だから、人々の心をとりこにする魔力を持っているのである。

マルクス主義は、そもそもヘーゲルの「歴史は発展する」という進化論から生まれた。ヘーゲルの発展史観は、そもそも、キリスト教のポスト・ミレの世俗版なのである。

ポスト・ミレから、キリストの王権を奪い、人間にそれを与えると、ヘーゲル思想が生まれるのである。

神を王座から引きずり降ろして、王冠を人間に与えるという発想は、カントに由来する。

カントは、「神とか霊とかは人間にとってわからない世界である。このような世界について詮索しても無駄だ。神とか聖霊といっても、それが本当にあるかどうか、どうしてわかるのか。それをどうやって人間理性だけで、科学だけで、証明できるのか。このような世界については、我々人間が独自に解釈し、『我々の世界』としてしまえばよいのだ。」と大胆に主張したのである。

我々の周りにある世界は、このような「人間だけで成立する閉じられた世界」である。

我々は、このようないつわりの世界観、偽宗教に骨の髄まで漬かっているのである。

もし、我々が統一教会の中で育ち、文鮮明が再臨のキリストだと教え込まれ、あるとき、それがおかしいと気づいたならば、どうするだろう。

もちろん、自己分析する以外にはないのである。洗脳されているのだから、その洗脳をとくしかない。

洗脳をとくためには、原理からじっくりと反省する以外にはないのである。原理的にその誤謬を納得せず、表面的に物理的にその組織から離れても、またもとの状態に戻ってしまうのである。

しかし、我々クリスチャンは、我々を洗脳してきた人間教に対して、このことを行ってこなかった。

神学校の主要な務めとは、この人間教を原理的に批判し、我々はどのように洗脳されたかを分析して、その洗脳から解放される道を人々に提供できるだけの理論武装した人間を世に送り出すことである。

しかし、今日の神学校は、このような原理的な自己分析に時間を使わない。だから、半分(いや、ほとんど)洗脳が解けていないまま卒業して牧師になるのである。

このような牧師が、どうして効果的な戦いを行うことができるだろうか。

戦争において勝つためには、その敵の中枢を探し出して、そこを破壊することである。

キリストは、「まず強い人を縛らないでは、その家を略奪することはできない」と言われた。

しかし、これまでキリスト教は、強い者を探すこともせず、それを叩くこともしなかったのである。

だから、これまでキリスト教の伝道師や牧師は、単なる「サタンの牧場において、自分に割り当てられた囲いの中で暴れている牛」に過ぎなかったのだ。

サタンは、「この割り当て地にいる限り、安心だ」とたかをくくっていたのである。

サタンについて言うと、「サタンとか悪霊なんて言うのはやめなさい」という教師が多いのは、この証拠である。

うまく飼いならされているのである。

我々は、この牧場から出て、牧場主に対して戦いを挑もうとしている。

だから、熾烈な攻撃があるのだ。

再建主義者も、再建主義者を支持したり、助けてくれる人も、一様に猛烈な攻撃にあうのは、このためなのだ。

ためしに、講壇からポスト・ミレを説き出して見るとわかるだろう。

妨害者が現れるだろう。自分の配偶者が何かにつけて文句をいうようになるだろう。離婚の危機に陥ることもあるかもしれない。

役員や信徒の中から強烈な批判をする者が現れて、あなたを免職にしようとするかもしれない。

病気や災害が降りかかるかもしれない。

精神的に強烈な抑圧や、鬱、自殺願望、倦怠、色情、姦淫などに襲われるかもしれない。

経済を破壊する人々がたてつづけに訪れるかもしれない。

不思議なことに、私が教会を訪問したり、面会すると、その翌週に、牧師が大病したり、火災が起こったり、悪霊につかれた人がやってきて女性信徒をトランクにつめて誘拐しようとしたり、非常に奇妙な現象がたびたびあった。

「俺は疫病神か?」と思ったことがあったが、これは霊的な現象なのだと後で気づいた。

つまり、最前線で攻撃しているから、周りの人が巻き込まれるのだ。

しかし、これを聞いて、おじけづかないでいただきたい。

最初、我々は攻撃されるが、必ず復活があるのだ。

神は我々を清めて、本気にさせるために、我々を試練にあわせられる。

しかし、その試練の時を乗り越えれば、偉大な働きが始まるのだ。

私の友人の川口氏は、再建主義を唱えだしてから、サタンが送った人によってほとんど破産状態に追い込まれた。車のディーラーをしていたが、家賃が払えないので、工場を追い出され、倉庫も何もすべて失ってしまった。もうどうしようもない状態に追い込まれていた。

しかし、今月、ある人が現れて、その人に自分たちの使命と働きについて説明したら、その施設の一部をただで使わせてくれ、そこにプレハブの事務所を建ててよいという許可をいただいたのだ。

そして、彼の念願の音楽伝道も、その施設で行ってよいという。

ついに、関東における再建主義の活動拠点が生まれたという感じである。

この施設の名は、もと結婚式場で、5階建ての立派なビルである。入間川のわきの風光明媚な場所である。

この岩清水という名前は、クリスチャンがつけた名ではなく、もともとそこは岩清水と呼ばれていたのである。何か不思議な導きを感じる名前だ。

私は、岩から清水が出るという出エジプト記の働きがここから始まると信じる。

全世界を聖霊の清水で満たす働きが始まったのだ。

ハレルヤ!



 

 

2003年03月24日

 

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