日本人よ、人智主義を捨てるべし

 


今の政治は、20世紀初頭の共産主義から濃厚な影響を受けていて、常識そのものがマ
ルキスト的になっているから、保守とか革新とか言っても、所詮「マルキスト」の度
合いが強いか弱いかの違いであって、自民党も民主党もどちらが政治を行ってもマル
キストの政治以外を行うことはできない。

共産主義は、つきつめて言えば、「法治主義」ではなく「人智主義」である。法が支
配するというよりも、人間(とくに、エリート)の知恵に依存する政治である。

この人間の知恵に対する信頼こそが、今日の問題の核心である。人々から財産を奪い
取って、中央の役人がそれを公共利益のために、配分するというシステムの基本にあ
るのは、「役人の知恵」に対する信頼である。

しかし、人間は罪人であり、「心ははなはだしく陰険であり、直らない」(エレミヤ
17・9)のであるから、このようなシステムが公平性を保ち、国民の利益になり続け
ると期待することは、まったく不可能である。

案の定、役人は自分の利益、省益などを守るために、国民の利益を犠牲にしているで
はないか。政治家は、選挙区への利益誘導によって、税金の公平な再分配を阻害して
いる。

政府に、教育権も、貨幣鋳造権も、財産・土地収用権も、ありとあらゆる権利を集中
し、国民の生活全体を東大卒のエリートたちが管理すれば、国家はうまく機能すると
いう発想そのものから脱却しない限り、自民党が政権をとろうが、民主党が政権をと
ろうが変わるはずがないのである。

キリスト教の国家観の中心は「人間不信」である。できるだけ、「人智主義」から脱
却して、人間をつねに競争とチェックの下において、権力を分散させることである。

その第一歩は、国が取ることのできる税金を、聖書が命じるとおりに、10%未満に抑
えることである。総額でそれ以上の税金を取れなくすれば、国が関与する領域が極端
に小さくなる。道路にしても、教育にしても、民間に任せれば、民間は互いに競争し
あって、コストを下げながら、互いに調整を働かせてうまくやるだろう。

しかし、人々は、このような競争分野が拡大することを恐れている。それは、神に対
する信仰が足りないからである。監督官庁が欲しいというのは、まだまだ人智を頼っ
ているからである。

何でも国のお墨付きを求め、「○○省公認業者」という肩書きを信用する体質が国民
の間にある限りは、この迷信から解放されず、いつまでたっても、税金の無駄遣い、
資源の無駄な配分は減らず、国民は奴隷状態から解放されない。

要は、どれだけ神を信用できるかにかかっているのである。政教分離の原則を採用
し、実質的に、無神論者であると自称している国と国民に向かって、聖書の神に頼
れ、と言っても無視されるだけだろうが、しかし、我々クリスチャンは、正しい国家
観を訴えなければならない。

人智主義の政府が、めちゃくちゃなことをやった後で、人々が聖書に耳を傾ける時代
がやがて来るからだ。

 

 

2003年11月10日

 

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