人は信じるだけで100%救われるのか?2

 

贖いの契約(アブラハム、モーセ)が一貫してそうであったように、キリストの契約の中に入る条件は、信仰のみです。
アブラハムにしても、モーセにしても、「何らかの行為を行ったから契約に入ることができる」というのではなく、ただ、贖いの事実を受け入れることによって、契約の中に受け入れられました。
アブラハムは「信仰によって義と認められ」、モーセと民は「門柱と鴨居に血を塗ることによって救われ」ました。何か善行を積んだから救われたのではありません。

しかし、その「信仰」とは、「神の主権を認める」ことも含まれていました。

けっしてディスペンセーショナリズムや無律法主義者が言うように、「無条件の救い」ではなかったのです。

神はアブラハムに「私の前に全き者であれ」といい、モーセに「私の前に他の神々を置くな」といわれました。
神の主権を認めなければ、その者は、契約から排除されました。

「国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。主のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。」(民数記15:30-31)

ここで、「断ち切られ」に使われている言葉karatは、「切り離す」というという意味で、「人間または自然の暴力的な行為によって、排除する、除去する、除名する、破壊するということを示し」、契約に関しては、「殺すか、除名するかのいずれか」を意味しています(Theological Wordbook of the OT,Moody Press, p. 1043)。

それゆえ、アブラハム契約とモーセ契約の完成であるキリストの契約に入ったクリスチャンも、神の主権を認めず、その戒めを破るならば、契約から排除されます。それが、「教会戒規」であり、教会戒規を執行する基準は、「神の主権を認めてそれに服従しているかどうか」という点にあります。

それでは、罪を犯したならば、クリスチャンは救いからもれることになるのか、という疑問が起きます。

それは、モーセ契約において明らかなように、罪を犯した場合にはその罪を悔い改めて、犠牲をささげ、やり直すことによって契約に回復することができます。

この罪のための犠牲は、キリストの契約において、キリストの十字架による贖罪であり、クリスチャンは、それゆえ、キリストの犠牲を信じ、悔い改めてやり直すことによって、契約に復帰できます。

それゆえ、教会戒規にかける前に、教会は罪を犯した人に悔い改めを迫らねばなりません。自ら進んで悔い改めている人を戒規にかけることはできません。

戒規処分にすべきなのは、「故意に罪を犯す者」であり、「主のことばを侮り」、「その命令を破」る者です。

先に挙げた民数記15:30-31の言葉の後に、その具体例が示されています。

「イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。た
きぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のと
ころに連れて来た。しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、
その者を監禁しておいた。すると、主はモーセに言われた。『この者は必ず殺されな
ければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。』そこ
で、主がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石
で打ち殺した。」(民数記15・32-36)

この人物が処刑されたのは、彼が確信を持って、故意に罪を犯したからです。「故意に罪を犯」し、「主のことばを侮り」、「その命令を破」ったので、「断ち切られた」のです。

戒規に値する罪とは、弱さから来る罪ではなく、悔い改めるつもりがさらさらないまま犯される確信犯的罪です。

つまり、「神様、私は、戒めを守りたいのですが、できないのです。赦してください。」という罪ではなく、「神様、私は、戒めを守るつもりはさらさらありません。」というような罪です。

それゆえ、「キリストの主権は、政治や経済、文化には及ばない」というような、「万物に及ぶ創造者の主権を拒否する教え」は、「確信犯」の罪であり、絶対に赦されないのです。神が「万物は私の所有である」と宣言しておられるのに、「いいえ、そうではありません。」ということは、神の主権を認める契約の民の言葉ではありません。

神の主権や法そのものを拒絶する罪は、絶対に赦されません。



実の父親に対する私の言葉について:

これは、肉親に対する軽蔑とか冷酷な扱いとかではありません。
万物に対して神の主権性を認めるか否かの問題は、教会戒規を適用すべき問題であり、正統と異端を分ける重大な問題です。「地上のことは地上の原理で」などという考えは、マルキオン主義、グノーシス主義の異端であり、このような問題において、私情をはさむことは、御言葉の忠実な管理者であるべきクリスチャンは、絶対にできません。また、もし私が実の父親だからということで、その発言を許すならば、父に対して悔い改めのチャンスを奪い取ることになるのです。これこそ、最も大きな親不孝です。

今日、自然主義神学、危機神学、ディスペンセーショナリズムなどの流行により、万物に対する神の主権を認めない立場のほうが教会において優勢であり、市民権を得ています。それゆえ、このような立場をそれほど深刻に扱う必要はないというような風潮がありますが、私は、これに反対します。

このMLにおいても、何度も繰り返して述べていることですが、もう一度言わせてください。

「もし、政治や経済、国際関係など地上のことについては、聖書ではなく、地上の(つまり、ノンクリスチャンの)原理で考えてもよい。聖書はこれらの分野については究極の権威ではない」という立場が正しいのであれば、「性については聖書ではなく、地上の原理で考えてもよい。聖書はこの分野については究極の権威ではない」と言ってなぜ悪いのか、ということになるのです。

どうして、「政治や経済、国際関係」はノンクリスチャンの原理で行ってよく、「性」についてはノンクリスチャンの原理で行ってはならないのか。

繰り返しますが、「万物の究極の価値判断の基準は聖書のみ」であって、もし、これを一部でも否定するならば、全部を否定することになるのです。

事実、欧米において、聖書が権威とならない領域は、「政治や経済、国際関係等」にとどまらず、「性」にまで広がっています。


 

 

2003年05月02日

 

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