クリスチャンカリキュラムの哲学 第2部 第3章「文法教育」

 


by R・J・ラッシュドゥーニー

言語と文法は、民族の歴史と文化、宗教の表現である。よく「文法なんて人間が作ったものであるから、変化したり発展するのは当然だ」と言い、新文法への批判者を「伝統文法を神の啓示と同一視している」と言って非難する人がいる。事実、新文法の急激な改革やその相対主義に反対する人々が文法を神の啓示と考えるのは、間違いであり、無分別である。文法と言語は、時代とともに変化するものであり、相対的なものである。しかし、それが相対的であるからといって、急激な改革を求める新文法主義を肯定することはできないのである。人間も世界も絶対ではない。それらは神の創造であり、それゆえ、神の御心に応じて変化し、また、神の御心に応じて変化した外界に対応して変化するものである。被造世界はすべて相対的であり、絶対なものは一つもない。ヒューマニストは、急進的な相対主義を唱えることによって、この世界を絶対化しようとする。人間の周りにあるすべてのものを翩々流転するものと見なすことによって、人間を新しい絶対者に祭り上げるのである。「言語と文法は民族の信仰と歴史に伴って変化する」という事実があるからと言って、「それゆえに、そこに価値も真理もない」と結論してもいいというわけではない。むしろ、「言語と文法は、その民族の歴史と信仰の産物であり、民族がどのような宗教を信じているかは、言葉と文法に深く影響する」と考えなければならないのである。…

さらに重要な点は、「言語と文法は、民族の持つ時間感覚と、時間の意味に関する宗教的信念を反映している」ということである。中国文化は、二千年以上、もしくは、最低でも千五百年もの間、相対主義を信じてきた。この影響は、中国語の文法や時制に現れている。中国語には、英語の文法や時制に相当するものがない。民族の時間感覚が発達すればするほど、その言語は通常単純化する。アメリカインディアンの諸言語は、非常に多種多様な文化的遺産を反映しているが、そのいずれも非常に複雑であるという点で共通している。現在の一瞬の出来事を表す表現法は非常に微妙であるが、過去や未来の出来事のためにはそのような繊細な表現はない。アフリカ人哲学者ジョン・エムビティによれば、アフリカの言語には、西洋(キリスト教)思想が発達させてきたような「未来」の概念がない。アフリカ人の意識の中には、過去と現在と直近の未来しかなく、これらのカテゴリーに収まらない概念はすべて「無時間(no-time)」の部類に入れられるのである。アフリカ思想には、時間が直線的に進むという概念(the linear concept of time)は存在しない。「現実の時間(actual time)」は、現在と過去だけである。永遠に変わらない不可避的な自然のリズムの中に収まらない限り、未来の出来事は認識されず、「潜在的な時間(potential time)」と見なされる。それゆえ、明日の出来事は、昨日と今日に起こった一般的な出来事以外ではない。この時間の概念は、古代世界とアジア、そして、現代人の多くに共通しているのである。

このような時間に関する考え方の違いを表す例として、非常に異なる意味を持つ2つの非常に似通った発言を取り上げてみよう。プルタルコスによれば、サイスにあるイシスの神殿には次のような碑文が書かれてあった、という。「私は、昔あり、今あるすべてのものである。そして、後に生まれるすべてのものである:何人も私のベールを取り除いたものはいない。」この言葉と、次の、主の宣言とを比較してみよう。「昔いまし、今いまし、後に来られる主は言われる。『わたしはアルファでありオメガである。はじめであり、終わりである』」(黙示録1・8)。イシスは、自分自身をプロセス(過程)であり、時間と存在の進展であると宣言した。万物は彼女から出で、彼女と同一である。これは、汎神論である。彼女自身が過去であり現在であり、昔存在したすべてのものであり、現在存在するすべてのものである。しかし、ここには未来の知識がない。それはベールに覆われており、知ることができない。(明日の)イシスは、見ることも、見られることもない。これは、偶然の世界であって、予定の世界ではない。

これに対して、全能の神イエス・キリストは、ご自身を、万物の創造者にして、万物の意味の唯一の源、アルファでありオメガであると宣言された。また、彼は、万物の絶対的予定者であり、それらを裁く裁き主として来られる方である。

この2つの「類似した」言葉は、まったく別々の世界を示している。キリストの御言葉は、西洋の言語と文法を形成し、聖書翻訳を通じて、世界のすべての民族の言語を作り変えている。聖書翻訳は、厳密化の作業である。というのも、それは聖書の意味を正確に伝えるために、実質的に、言葉そのものを作り変える働きだからである。かつてある宣教師が次のように言った。ウィクリフ宣教会による聖書の部分訳を手にした原住民の新回心者が、「私たちは今、新しい言葉を喋っている」と語った、と。

西洋の言語はすべて、聖書の信仰と翻訳によって作り変えられたことをはっきりと証言している。それらは、聖書が示す思想と意味によって作り変えられてきたのである。西洋語の文法や時制、構文法、構造、思想、意味の中には、キリスト教思想が刷り込まれているのである。たしかに、言語や文法は相対的である。しかし、それは、聖書的信仰の遺産に対して相対的なのである。新文法は、この信仰と伝統を敵視している。その動機は、実存主義ヒューマニズムである。このような思想と妥協するならば、我々は、言語以上のものを急速に失うことになるのである。


 

 

2003年04月24日

 

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