本当に強い人とは?


よく映画やドラマなどで「自分を信じて歩め」「自信を持てば大丈夫だ」というセリフが出てくる。

ヒューマニスト(人間中心主義者)の基礎は、「自信」である。

ヒューマニストにとって大人とは、自分に頼ることにおいてよく訓練された人であり、子供とは、自分に頼れず他人を当てにする人である。

こういった間違った価値観から見ると、クリスチャンは、弱いと見える。自信をもてない奴。子供。そういった評価になる。

クリスチャンになった人間がまず愕然とさせられるのは、自分が頼っていたものをことごとく捨てさせられるということだ。

神は、「神以外に我々が頼るもの」を偶像として捨てるよう要求される。

この訓練はクリスチャンになって最初にやってくることが多い。

そして、この訓練を経ていない人は、本当に自分がクリスチャンであるかどうか疑うべきだ。

クリスチャンになってなおも信頼の対象が自分や他のものになっているならば、信仰の基本訓練ができていないということだ。

神に愛されている人なら、様々な経験を通じて、自分の様々なプライドを徹底して破壊されるだろう。

私は、小学校からずっと平均以下の成績を取ったことがなかった。

会社に入ってびっくりした。みんな一流大学卒で、角刈りのやくざ風の社員も後で聞くと一橋だったりした。

生まれてはじめて、平均以下の気分を味わった。

自分がそれまで頼ってきたものを破壊するために、神はわざとそういう場所に私を置いたのだろう。

ちなみに、みんな東大など一流大卒とか聞くと、立派で自立しているような印象をもつかもしれないが、実際は依存心の強い人が多い。

同窓会で、東大卒の奴に勤め先を聞くと、「○○出版だよ。小さな会社だけどね。」と恥ずかしそうに言った。なぜ恥ずかしいのだろう。不思議に思った。

一流大卒の人々は、小さいころから、本当の自信を養う機会に恵まれなかった人が多い。

無人島とか、学歴とか無関係なサバイバルな環境に一人で置かれた場合に強いのは、そんな社会的な支えが不要な世界で生き残ってきた自営業者などである。

加藤諦三の本で、ある東大生の兄弟の話があった。

兄は、自分よりも弟のほうが成績がよいため、劣等感から自殺したというのだ。

弱い、弱い人間だ。

比較によって生きることに訓練されているから、本当の生命力を養う機会に恵まれなかったのだ。

おそらく、東大卒で固めている官庁なんかにこういった人種は多いのだろう。ちょっとつっつけば倒れてしまうような、そんな人間たちだろう。

肩書きを消して勝負できるか、それが人間の本当の強さだ。

そういう意味において、本当に強いのは訓練されたクリスチャンだ。

神は本当のクリスチャンを様々な試練にかけられる。自信を奪い、頼るものをいっさい剥ぎ取られる。

学歴、肩書き、社会的権威、そんなものをすべて奪い取られる経験をする。

そして、最後に、聖書だけしか頼れないことに気づく。

だから、聖書信仰に固執しない人間を私は信用しない。

本当に訓練されていないからだ。

ぎりぎりのところまで鍛えられていないからだ。

本当のクリスチャンは、御言葉にしか依存できないことを学んでいるはずだ。

 

 

2008年2月28日

 

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