プレテリズムの聖書解釈6


<O様>
頂戴したメールの疑問(1)(2)(3)(4)私も聖書から解答を導き出せずに、(それゆえに)パーシャル・プレテリストの立場におります。

特にマタイ5:18「律法・・・すべてが成就しない限り」(逐語訳)が重大な分水嶺であろうと考えております。

なお、私が困惑しているのは、「「(モーセの)律法」は、ここが**律法、ここから**律法と分けたとしても、全部を合わせて「律法」という。それゆえに十字架で「祭儀律法」が成就したのならば、他の**律法もすべて成就したはずである」(たしかジョーダンだったと思いますが)です。うーんと唸ったまま先へ進めずにいます。

<tomi>
「祭儀律法」が成就したならば、他の**律法もすべて成就したはずである、とのジョーダンの意見は正しいと思います。

イエス・キリストは、その生涯の中で律法と預言者を完全に成就したのです。

しかし、「成就した」→「無効化した」という議論は成立しないでしょう。

たとえば、職場規定を完全に遵守した人がいたとしても、それによって、その職場規定が無効化することにはなりません。

イエス・キリストは、人間が守らねばならないすべての戒めを守った。イエス・キリストは、我々の身代わりに試験で100点を取ってくださった。だからといって、その戒めや試験がまったく無効化するわけではない。

旧約律法は、イエス・キリストが成就したとしても、依然として神の御心として有効である。

イエス・キリストがその祭儀律法も守り、罪人の身代わりとしての犠牲の動物の役割を果たされたので、我々は律法遵守の失敗のために滅びる必要はない。

だから、旧約律法の存続そのものは、我々の命を脅かさない。

私は、なぜフル・プレテリストが律法の存続を忌避するのか分かりません。

忌避しなくても、律法が我々を責めることはないのですから。

 

 

2004年10月27日

 

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