聖書の世界観を矮小化するフルプレテリズム


<O様>
T先生のメールで知ったのですが、モンタナに住むティム・マーチンという人が、創造科学を越えてというプレテリズムからのディスペン神学に立つ創造科学の批判の本を書いたそうです。。彼のアプローチは釈義的にはノアの洪水は世界規模ではなく、地域的なものであったという立場です。

とすると、ティム・マーチン師の解釈によると、創世記9章9〜16節の契約も「地域限定」になってしまうのではないでしょうか。岩波訳の創世記の欄外注でも「『永遠の契約』は・・・これらが特定の民や家系の選びを表すのに対し、ここでは全人類および自然が視野に置かれる。」とありますし、私はやはり、 ノアの洪水」は全世界規模のリニューアルだった、という解釈に立ちますが如何でしょうか?。

もう一つ、これは個人的デボーションで考えたのですが、確かに新約聖書の「全世界」はローマ帝国に限定されたとしても、マタイ28:19「あらゆる国」、またマルコ16:13「全世界」は全知・全能・遍在の神であられるイエス様の視点から語られた御言葉ですから、文字通り「全世界」なのではないでしょうか?

お忙しいところ恐縮ですが、宜しく御指導の程、よろしくお願い申し上げます。

<tomi>
まったく同じ意見です。

(1)
ノアの洪水は、創世記1章の逆戻しです。

ラジカセのテープを逆に戻して音を聞くと、録音されたものが逆に聞こえるのと同じように、神が創られた秩序が、水によって崩壊し、無秩序化するということを洪水は象徴しています。

これを英語でcreationに対するdecreationと言います。日本語ではあまりいい訳はないのですが、「反創造」と訳している人もいます。

神は混沌の中から「分ける」ことを通じて、世界を形作られました。

光と闇を分け、天と地を分け、海と陸を分け、…人を男と女に分けられました。

文明とは、分別によって成立します。未開の人々は、分けることができません。自然現象と霊現象をいっしょくたにします。科学は、雷の発生原理を論理的に説明し、それが神か悪魔か何かのたたりだと考えてきた人々を迷信から解放します。

牛やへびなどを神として崇めるのも分別がないからです。

洪水は、分けるための境界をことごとく消し去ります。

洪水の被害にあった地域を見ればわかるように、浸水にあうと、家も畑も上水も下水もすべてごたまぜになります。

洪水の裁きとは、創造の秩序を延長し、人間の文明を通じて、世界を秩序立てていくという使命を与えられた人間がそれを果たすことができなかったことへの裁きです。

ノアの時代に、地は暴虐に満ちていたと聖書は述べています。

人々は分別を失い、善と悪の区別ができなくなり、人間と動物、男と女の境界が消し去られ、ホモセクシュアル、獣姦などで地が汚されていたと思われます。

神は創造した世界を悔やみ、もう一度最初からやり直す道を選択された。

水から出てきた世界に対して、神はノアにもう一度「地を従えよ」というアダムの使命をお与えになった。

ノアの再出発において神は、世界を「再創造」された。

創造が世界大の出来事であったわけですから、再創造が世界大の出来事でないはずがない。

ですから、洪水が地域に限定された出来事であると考えることは絶対にできません。

(2)

新約聖書の「全世界」はローマ帝国に限定されません。

フルプレテリズムは、離散ユダヤ人の存在を無視しています。

イエスの時代に、離散ユダヤ人は文字通り世界中にいたのです。

フェニキア人がイギリスやアメリカ大陸、オーストラリア、ひょっとして日本にもわたっていたことを示す「オーパーツ」が出土しています。

紀元前10世紀頃のユダヤ人のメノラが南米で発見されました。

聖書で、ソロモン王が集めた物産の中に孔雀が含まれていますが、孔雀は、原産国がミャンマーであり、当時すでにミャンマーとの交易があったことを暗示しています。

私は、離散ユダヤ人の存在を無視することは、神が旧約時代において、ユダヤ人を異邦人の中に散らして、異邦人への祝福とされたことを無視することであると考えます。

フルプレテリズムは、聖書の扱う領域をユダヤと地中海地方に限定することによって、クリスチャンの視野をせばめています。そのため、世界大の広がりを見ることができなくなるのは非常に残念なことだと思います。

聖書が扱っているのは、世界の諸民族に対する神の救いの計画であり、イスラエルだけの民族神ではないのです。

おっしゃるように、聖書の神は宇宙を創造された神なのです。

 

 

2005年7月13日

 

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