キリスト教とバルト主義3


もし、通常の歴史の中において現れたナザレのイエスが神であるならば、人類に対する神の恵みは、歴史の中のある特定の時間において、パレスチナの土地において起こった事柄に限定されてしまう。そのため、万人の神に対するもともとの関係は、恵みの関係ではなくなってしまう。

肉体的復活はなかったというブルトマンに反対し、「復活の事実がなかったならば、福音は神話になってしまう」と言い、「啓示は歴史的である」と言う彼が、他方で、歴史は啓示的ではない、という。普通の人からすれば、これは明らかに矛盾であるが、彼にとってそれは矛盾ではない。

なぜならば、バルトにとって歴史という言葉の意味は2つ存在するからである。

一方は、手紙の中で相手に「いついつどこどこで何があった。」と伝えるような内容のものである。歴史書には、この類の歴史が記されている。聖書もこの類の歴史を伝えている。聖書は、ユダヤ民族について語っており、新約聖書においては、イエスという名のユダヤ教の教師について伝えている。

バルトは、このような類の歴史は神を啓示していないという。なぜならば、歴史家は過去について語る場合、みな間違いを犯すからであるだけではなく、過去に起こった事柄を「本当に」正しく伝えるには、歴史家は、実際に過去に起こった出来事をもう一度追体験しなければならなくなるからである。そんなことはタイムマシンでもないかぎり不可能である。そして、そうしない限り、彼らは何が重要で何がそうではないか区別することができない以上、この類の歴史において起こるという神の啓示は、誰も本当の意味を知りえないものということになるのである。

この欠点を克服するために、バルトは「神の啓示とは、神ご自身と同一である」と考えた。啓示は、この類の歴史において起こることとはまったく別のものである。神の啓示は、この類の歴史においては隠されている。バルトは、この類の歴史をHistorieと呼んだ。Historieは啓示的ではない。

それに対して、もう一つの歴史Geshichteは啓示的である。イエス・キリストは神であるとバルトが述べる時に、彼は主にHistorieではなく、Geshichteについて語っている。イエス・キリストは、万人を救う「出来事」もしくは「行為」として、神である。キリストは、ご自身の啓示の出来事である。(Ibid., 1/1, p. 119.) バルトが聖書を神の御言葉と呼ぶときに、彼は主にGeshichteについて語っているのであって、Historieについてではない。

彼は完全にHistorieを除外しているのではない。イエスの肉体的復活について述べるときに、彼はこのことが事実であると認める。バルトは、HistorieをGeshichteの中に含めるのである。GeshichteはHistorieをそのうちに含むが、結婚においてパートナーは平等ではないのと同じように、HistorieはGeshichteに服従する。しかし、前者は後者に包含されたと言ってはならない。そのように言うと、Geshichteは[対象が吸収消滅してしまうので]優先性を失う。神は、人間が神について論理的に述べることを超越しているのである。

そのため、「出来事としてのキリストChrist-Event」について語るときに、彼は存在するすべてについて語っているのである。バルトは、神と世界は共通の歴史を持つと言う。神は「歴史をご自身のものとか、我々のものとか言うことをお許しにならない。神は、ご自身と世界が共通の歴史として起こるように働かれる」のである。(Ibid., 4/1, p. 6; Engl. tr. p. 7.)神はご自身の歴史に人間を参加させ給う。

こう述べたからと言って、バルトを汎神論者としてはならない。バルトにとって、神は、人間と直接的に同一の存在ではない。神と人間は、Geshichteなるキリストを通して、間接的に同一なのである。(Ibid., 3/2, p.69.)

人間イエスにおいて、神は「選ぶ創造者であるだけではなく、選ばれる被造物でもあられる。恵みを賜るお方だけではなく、恵みをお受けになるお方でもある。命令者であるだけではなく、服従するように召された者でもある。」(Ibid., 3/2, p. 186.)キリストを通じて、神は人間を「ご自身の神性内部のGeshichte」に参加させ給う。(Ibid., 3/2, p. 236.)

このすべてにおいて、バルトは、「モダニズム、ローマ・カトリック、ブルンナー、ブルトマンから、恵みの首位性を守る」という使命を忘れていなかった。これを行う方法として彼が選択した方法とは、「Geshichteとしてのキリスト」の主張であった。

まさに、バルトは、プラトンの弟子であった。プラトンは、現象の世界とは影の世界であり、本体の世界は別にあると言った。その本体の世界では、すべてが完璧で、永遠である。バルトのGeshichteとHistorieの区別は、プラトンの本体と現象の区別と重なる。

Geshichteに理想を求め、絶対者なる神であるキリストをその理想領域に属させ、欠けのある現象世界の人間イエスと区別することによって、神や啓示の完全性や永遠性を保護する。

バルトのキリスト教救済とは、このように敵のツール(つまり、ギリシア二元論)によって成し遂げられた弥縫策でしかない。

完璧に聖書啓示に頼ることができず、自分の空想によって解決を見出そうとする小ざかしい根性を捨てない限り、我々は、正統的な信仰を守り通すことはできないということを肝に銘じるべきである。

 

 

2006年3月18日

 

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