確実な人生を歩む唯一の秘訣


ヒューマニズムの認識論の問題点は、人間の認識能力が不完全にある。

ヒューマニズムでは、認識は人間から出発する。

人間が科学的に証明したものだけが確実である。だから、ヒューマニズムにおいて、キリスト教の教義は「科学的に証明されていない不確かなもの」という範疇に属する。

万物の尺度は人間であり、科学である。

これが、近代人の認識の前提だ。

しかし、残念なことに、人間の認識能力には限界がある。

人間は全知ではないので、知識に穴が多くある。だから、科学の発展によってその穴を埋めていく必要があるのだが、原理的に埋まらない領域がある。

それが「意味」の世界だ。

人間存在について物理学的・化学的に分析できても、総体として人間存在の「意味」についてはどうやっても科学で立証できない。

だから、ヒューマニズムでは、「意味の世界」は科学的認識の埒外ということになった。

ヒューマニズムに頼ると、人間は、意味の世界を取り扱うことができないので、善悪も「客観的には」決定できない。

殺人が悪であると誰も証明できない。同性愛が悪であるか誰も決定できない。

それだと社会は成立しないので、善悪を決定し、それに基づいて法律を作らねばならない。しかし、善悪は科学では決定できないので、社会通念のようなものに依存することになる。

究極的にいって、犯罪者とは「単にその社会が無根拠に決めた善悪のシステムに適合できなかった、もしくは、しなかった人」ということでしかない。

1人殺して殺人者になる者もいれば、何万人も殺して英雄になるナポレオンのような人間もいる。

善悪はその時々の社会通念が決定するので、犯罪を犯して裁かれた人はアンラッキーということでしかない。

まあ、このように、ヒューマニズムの体系は、非常にあいまいさが残るものである。

だから、我々の人生を委ねる体系としてははなはだ心もとない。

そういう意味において、人間は、精神病に陥りやすい。

ヒューマニズムの体系に本当に頼っていいか不安をかかえているので、ある人々は、それとは別の体系、宗教を信仰して、自分の不安を払拭しようとする。

しかし、その宗教の体系も本当に確実か分からない。

よくよく調べていくと、根拠が薄弱であるというものであるかもしれない。

徹底して物事の本質を探るまじめな人にとって、宗教は失望の種になるかもしれない。

聖書的キリスト教では、認識の出発点は人間ではない。

それは、三位一体の神である。

三位一体の3人の神が持っている互いに関する知識が土台である。

世界が存在する前に、神しかおられなかった。

だから、知識とは、神の三位同士の知識しかなかった。

神の三位は、互いに対して完全な知識を有する。神にとって互いに隠れている部分はわずかたりともない。

この神の自己認識こそが、我々人間にとっての知識の土台である。

だから、我々の認識は、何よりも確実なのだ。

我々の土台は、不可知で有限な人間の知識ではない。

いつ定説が覆されて、それまでの常識がひっくり返るか分からないような科学的知識が究極の土台ではない。

我々の知識の土台とは、科学がどの程度発達していようが関係なく、聖書に記されている神の自己啓示である。

完全な知識を持つ神が我々に啓示されたことが、我々にとって唯一絶対に確実な知識である。

我々は、そこから知識を広げなければならない。

自然科学も、その前提にたって発展させなければならない。

聖書は土台であって、聖書を証明することはできないし、すべきではない。

聖書を疑うことはタブーを犯すことである。

我々被造物に、主である神の言葉を疑う権利はない。

疑ったとたんに、我々は神の裁きの対象となる。

我々は、聖書から出発しよう。そこから出発してあらゆるものをそれに基づいて評価しよう。

それが確実な人生を歩む唯一の秘訣である。

 

 

2010年10月18日

 

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