神について行けないなら、サタンについて行くしかない


こういう活動をしていると「ついて行けない」という人が現れる。

これは仕方がない。人間は保守的である。新しいものを受け入れたがらない傾向にある。

私は、「何でも受け入れなさい」とは言わない。

「聖書が受け入れることを命令しているものは受け入れよ」と言う。

聖書が述べていないことまで受け入れよとは言わない。

だから、聖書があいまいにしている領域に関しては「仮説」という形で提供している。

しかし、現代人は聖書がはっきりと述べていることについてまで、「受け入れられない」という。

これは明らかに反逆であって、看過できない。とくに牧師など教職者については免職に値する罪である。

我々現代人は、まず自分の思想がどのように形成されたか自己反省する必要がある。

我々は、義務教育制度によって、ヒューマニズムを子供のころから叩き込まれているのである。

ヒューマニズムの基本は、「私の理性が受け付けるものだけを受け付ける」という考えである。

聖書啓示から出発するのではなく、「私の理性」から出発するのである。

基準は神にではなく、自分に置かれているのである。

このように、我々は、国の教育を通じて、「小さな神」に仕立てられてきたのである。我々は、自分自身が教祖になるべく訓練されてきたのである。

もちろん、これは、悪魔の仕業である。悪魔はエデンの園において、アダムとエバに対して「神は本当にそのようなことを言われたのですか?神の言葉よりも自分の感性に従って決断しなさい。」と述べ、誘惑した。

それゆえ、聖書啓示に基づかない判断は、ことごとく悪魔的であると言える。

それがいかに道徳的に見えても、聖書によらない判断は罪である。

我々の聖書に対する態度は、主人が僕に命令する態度である。

「これは間違いだ。訂正せよ。」と。

逆だ。

我々が聖書の前にぬかづいて、「ごもっともです」と言うべきなのだ。

ヴァン・ティルの前提主義とは、このことを言ったのである。

つまり、「自分の理性や感性からではなく、聖書啓示から出発せよ」と。

デカルト・カントの霊的子孫である現代人に対して、ヴァン・ティルは「へりくだれ。そして、聖書を無誤無謬として受け入れ、それを前提として出発せよ」と述べた。

「ついて行けません」なんて言ってはならない。

神について行けないなら、サタンについて行くしかない。

人間には第3の道はないのだから。

 

 

2007年1月13日

 

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