字義的解釈と象徴的解釈の区別3


<Q>
創世記はひとつの記録書又は歴史書なのでしょうか、それとエゼキエル書にあるユダの罪を一日を一年として四十日定める、は神は字義通りに受けさせない場合は説明される方だと思われるので創世記の記述は字義通りに解釈していい理由になると思うのですが、御意見の方お願いします。

<A>
創世記にしても、エゼキエル書にしても、聖書はすべて契約的書物であり、歴史書や科学関係の書物のようなものではないため、歴史書や科学関係の書物のような厳密な記録的・科学的情報を期待することは的外れということになります。

すべては、神と人間の間の契約に関して記述されており、神が人間と世界を創造し、人間に地上支配を命令し、その実行、成績に応じて賞罰を下し、相続を与えたり与えなかったりする、というテーマを中心に記されています。

ですから、歴史書や科学の書物に期待するようなデータを期待することはおかしいですし、また、「寓話」のようなものとして解釈することもおかしいのです。

例えば、旧約のエドム人への裁きを記した個所の中で、「山は溶け、天は巻物のように巻かれて消える」という個所を本当にそういうことがあったと解釈することは不可能です。

「水が私を飲み込んだ」というような詩的な表現を文字通り解釈するのはナンセンスです。

また、リベラル派がよくやるように、「出エジプトはなかった」とか「イエスの復活は存在しなかった」といった「寓話的解釈」は間違いです。

なぜならば、契約は事実に基づかなければならないからです。どの契約においても、実際に商品やサービスが存在しない空想に基づいて契約は結ばれません。

それゆえ、聖書は、「契約の書として成立する程度に歴史的・科学的である」と考えるべきです。

創世記の記述が現実のものではないとしたら、契約の基礎的事実が存在しなかったということになり、それ以降の契約のテーマが崩れてしまいます。

もしアダムの堕落が存在しなかったとしたら、キリストの贖罪も無意味になります。

 

 

2007年1月16日

 

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