律法悪玉論は異端である


スコットランド長老教会が新たに「異端宣言」を出したというのが本当かどうか調べているのですが、どうもリンクが見つからないのです。

誰かどこにその宣言があるか、教えてください。

まあ、恐らく、http://www.path.ne.jp/~millnm/scot.htm と同じ議論の繰り返しでしょうが、見つかったら反論を書こうと思っています。

私は、読者のみなさんがどのように考えておられるかわからないのですが、すでに示したように、私にとっては、山谷さんの「律法悪玉論」は、いくつかの聖書の個所と完全に反しているので、山谷さんのほうが異端に思えるのですが、いかがでしょうか。

「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3・31)

信仰の時代になったからといって、律法が無効になったわけではない、むしろ、確立されたとパウロは言っているではないですか?!

また、

「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7・12)

とも述べており、はっきりと「律法は良い」と宣言されている。

また、

「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8・3-4)

ともあります。

ここでは、御霊に従って歩むのは、「律法の要求が全うされるため」だと言われています。

これらの個所において律法はけっして悪玉として描かれていません。

山谷氏はじめ、反セオノミストたちは、この矛盾をどう考えているのでしょうかね。

ガラテヤにおいて律法が否定的に描かれているというが、ガラテヤは、「割礼を受けなければ救われない」という「割礼派の律法観」に対する批判であって、律法そのものへの批判ではありません。

この程度のことは、聖書を教える者としては基礎中の基礎のことで、改革派の中で「律法悪玉論」など言う者はいません。

ウェストミンスター信仰告白でも、キリスト教綱要でも、律法が悪玉として扱われていることはありません。

たしかに、ディスペンセーショナリズムは悪玉と見ますが、しかし、改革派は悪玉と見ず、「律法は救われたクリスチャンにとって道標である」という「律法の第三効用」を主張します。

この「律法の第三効用」は、歴史的な立場であって、我々の創作ではありません。(*)

それゆえ、山谷氏が「律法悪玉論」を唱えるときに、同時に歴史的正統的信条をも同時に否定しているということになるのです。

そして、これは山谷氏だけの問題ではなく、ディスペンセーショナリズム全体の問題でもあります。

つまり、ディスペンセーショナリズムは、歴史的な律法を崩したのです。

スコットランド長老教会は、「申命記を守る必要はない」と公言しているので、同じように改革派から離れて、ディスペンセーショナリズムの律法観に逸脱しているのですから、彼らから異端宣告されたとしても、それはこちらにとって何ら不都合なことはなく、むしろ歓迎されるべきことです。

「律法は悪霊の手による」とか「律法悪玉論」、そして、「新約聖書においてクリスチャンは律法に支配されない」などという説は、聖書からも信条からも証明できない謬説であり、「異端」です。


(*)

カルヴァンは、ローマ7章の注解において律法が良い物であると主張している。

「私は、パウロが『律法そのものや、律法の中で命じられているものはことごとく聖である』という時に、それらの言葉の中に特別な力があるがゆえに、それは最高の尊敬をもって扱われるべきだと考えている。律法は正しく、それゆえ、いかなる非難も浴びせられるべきではない。

律法は良いものであり、純粋であり、有害な部分がまったくない。パウロは、あらゆる非難から律法を守っているのだから、誰も『律法は、善や正義、聖さに逆らうものである』と言うべきではない。」(Calvin, John, Calvin痴 Commentaries: Romans, (Albany, OR: Ages Software, Inc.) 1998.)

 

 

2004年6月21日

 

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