過剰な人間崇拝と過剰な組織忌避のいずれも回避すべきだ


以前から気になっていたことだが、どうしてカルヴァン派のグループは、先生に対する過剰な尊敬があるのだろうか。

どのグループにもある。これは不思議な現象だ。

「チャールズ・ホッジの注解を読まないとローマ書は理解できない」とか、

「○○先生はすごい。あんな人は見たことがない。」とか。

「ウォーフィールドは、キリスト教の最高の真理を究めた」とか、・・・。

こういう手放しの礼賛というものは、もし神と人間との関係がわかっていれば、出てこないはずなのだ。

カルヴァン自身がこう述べている。

「パウロは、人間から見れば聖人だが、神から見れば一匹の野獣である」と。

カルヴァンの特徴は、ローマ・カトリックの聖人崇拝に対する反動であるかもしれないが、「人間を誇らせない」ところにある。

「人間というものは、どうしようもないものだ。無力だ。神の前に愚か者で、救いようがない。死人だ。」

そういうスタンスに貫かれている。

このカルヴァンから弟子たちが、どうしてこうも聖人崇拝に陥ったのか。

あるカルヴァン派の教会の長老は、こう述べた。

「自分の教会で礼拝しないのは罪だ。旅行先からでも帰ってきて礼拝に参加すべきだ」と。

こんなこと聖書のどこに書いてあるのか。

このような儀式への拘泥は、おそらく人間の制度を過剰に尊重したところから来るのだろうと思う。

私は、現在の形のカルヴァン派の教会組織に加わりたいと思わない。

これはカルヴァン派の組織のどこでもそう感じるのだが、人間による裁定への異様な恐れがある。

民主的とか言うけれども、「そんなに人間が決めたことが重大なのですか?」と叫びたくなる。

ある教派は、「クリスチャンがどこかの組織から抜けたならば、その人が新しい組織に加わるまで確認しなければならない。それまで籍を抜いてはならない」と規定している。

これは原則だ。

どのような場合でも適用できるわけではない。

とくに、現在のように、あまりにも教会が異端化してしまって、どこも行き場がないような状況の場合は、所属がためらわれる場合がある。そうした場合に、教会籍制度がきちんとした教会に加わらないことも原則としてありえる。

イエスは「私の名のもとに2人または3人が集まるところに私もいる」と言われた。

神の国は、2つの面があると思う。

(1)人間の裁決によって門が開いたり閉じたりする。
つまり、教会の判断によって、ある人の不可視的教会への加入が決定され、その人の永遠の運命が決定される。

これは、イエスが、弟子たちに「あなたがたに天の門の鍵を与える」といわれたことから明らかだ。

だから、我々は、ある教会で異端の宣告を受けた人を受け入れるのには、十分精査が必要だ。簡単に受け入れることによって、異端の害が広まる。

(2)人間の組織の扱いを超えた神の働きがある。
これは、歴史上何度もあった。

教会組織全体が異端化してしまい、まともな人々がはじかれてしまい、行き場がなくなる状況だ。

もしくは、教会が怠惰で、伝道をしないために、超教派の伝道組織を起こして、教会と無関係にはじめる場合がある。

こういう運動を教会に根ざしていないから悪いと簡単に裁くことができるだろうか?

教会がまともに機能していなければ、神は聖霊によって直接ある人々を選んで、務めに任じることがある。

私は、このように2つの側面をバランスよくとらえなければならないと思う。

人間組織への無視も、過剰な依存も、いずれも間違いだ。

あたかも人間崇拝であるかのような過剰な評価が人間に下される団体は異常だ。

かといって、まったく組織を尊重しない「一匹狼」も異常である。

人間は、集まるように造られている。

集まることによって、正常になるという部分もある。

両方を尊重すべきだと思う。

 

 

2009年11月27日

 

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