真理の主張は裁きである


最近、教会学校に通う子供たちが減っているそうだ。献身者も減っているという。

オウム事件の影響もあって、全体的に人々は宗教を敬遠するようになった。

そもそもオウムに関わった人々は、既存の宗教に飽き足らなかったからである。既存の宗教が人々のニーズに応えていないというのも事実だろうし、今の日本は宗教なしでも幸福を追求できるほど満たされているのかもしれない。

こういう姿を見て、ディスペンセーショナリズムのクリスチャンは、「この世がよくなるなんて信じられない。」という。「今の世相を見れば、みんな宗教離れで、道徳は地に落ちているではないか。」と。

このような論の立て方をするというのは、彼らが人間の教えに堕ちたからである。

聖書は何を言っているかよりも、周りの状況で判断するから。

こんなのは信仰ではない。

信仰とは「まだ見えないものを期待する」ことである。アブラハムは自分の生涯において実現しなかった約束を信じ、その信仰のゆえに義と認められた。

イエスが来られた目的は、「悪魔のしわざを打ちこわすため」(1ヨハネ3・8)である。

「これから世は悪くなり、サタンが支配し、その流れを止めることはできない」ということは、イエスの来臨の目的を否定することにほかならない。

私が訪問する教会の牧師、そして、会うクリスチャン会うクリスチャンみんなが、「世の終わりだ。最近の事件はその証拠だ」という。

今のキリスト教界は、「不信仰」に占領されたのだ!

そして、私が聖書が教える楽観主義を唱えると、理由も示さずに、また聖書から反論もせずに否定し、中には「毒麦」と罵る者すらいる。

このような反応を見て私は思った。

真理が入ると、クリスチャンは2つに分かれる。それまで曖昧だったものが、はっきりする。誰が真理の子であり、誰が悪魔の子であるかがはっきりする、と。

「そこで、イエスは言われた。『わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』」(ヨハネ9・39)

いつの時代においても、イエスの教えをまっすぐに伝える者が現われれば、そこに「見える者」と「盲目な者」とがはっきりと分かれる。

その意味において、真理とは「裁き」である。真理は、鋭利な刃物であり、灰色を白と黒に二分する。

私は、それまで聖書からまっとうなことを言っていた人々が、私と議論した後で、めちゃくちゃなことを言ったりやったりするのをしばしば目撃した。

まさに、「見える者が盲目とな」ったわけだ。

その逆に、私の説明を喜んで聞いて受け入れ、どんどん真理を示される人もいる。

このように聖書にたった教えの宣教は、「見えていた人を盲目に」「見えなかった人々を見えるように」するという2つの極端に導く。

それゆえ、ときどき私は怖いことをしているなあ、と思うことがある。それまでキリスト教界を指導してきた高名な牧師が、私と議論した後に、逆上して、やってはならないことをやりだしたり、言ってはならないことを言いだしたりして、自分の社会的立場だけではなく、信仰すらも「自分で」破壊するという事例を見てきたからだ。

しかし、イエスはこのような裁きをするために来られたと言っておられるのだから、やはり弟子であるクリスチャンも彼にならって聖書にたった教えを語り続ける以外にはないだろう。この場合、死体が累々と築き上げられる結果になったとしても、そのクリスチャンの責任ではまったくない。

 

 

2004年6月6日

 

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