なぜイエス・キリスト以外に救いの道はないのか?


聖書的キリスト教は、「キリストだけが道である。それ以外救われるための方法はない」と断定する。

これに対して「狭量だ」という人がいて、その批判にあわせて「他にも道はありますよ」とビリー・グラハムやFEBCなどが言っている。

狭量とは何か?イエス・キリストだけが救いだという我々はそんなに狭量だろうか。

もし仮に、ある死に至る病があり、そのための薬が一つしかない場合に、「これしか助かる方法はありません」と言う医者は狭量なのだろうか。

「え〜、その方法はいやです。他のにしてください。」と患者が言う場合に、他に方法があれば「他の方法を試しますか」と言ってもよいが、もしなければ完全なやぶ医者である。

それは心が広いのでも何でもなくて、単に患者の顔色をうかがって正しいことができない臆病者、不誠実者、裏切り者である。

我々は、人々に誠実であろうとするから、「イエス・キリストしか道はない」と言っている。

別に意地悪をしているわけでも、党派の拡大のために言っているわけでもない。

聖書が「これしかない」と断言しているから、そう述べているだけだ。

なぜイエス・キリストでなければならないのだろうか。原理的に考えてみよう。

もし罪を一度も犯したことのない人がいたとして(実際にはいないが)、彼があなたの罪のために命を捨ててくれたとする。身代わりの刑罰を受けてくれたとする。

さて、あなた以外の人が現れたらどうするだろうか。その奇特な人の命は適用されない。なぜならば、人間一人の命を救う効力しかないからだ。

単なる人間では、一人の贖いしかできない。

一人の人間の命を差し出して1億人の命と交換することは不可能だ。

それは、1円で1億円の値の商品を買おうとするようなものだ。

人間全員を救うには、単なる人間ではだめだ。

救い主は絶対に神でなければならない。

だから、人間であると同時に神であられるイエス・キリストしかいないのだ。

どんなに高い買い物でも、無限の価値のあるものを差し出せば買えるように、神の命を差し出して買えないものはない。

イエス・キリストは、人間全員の命を救い出しただけではなく、全被造物をも救い出された。

イエス・キリストが十字架で死なれたのは、人間の命だけではなく、全被造物の贖いである。イエスは、宇宙全体を買い取られた。

だから、天地にある一切のものが十字架において聖められ、神の所有物になった。


神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。(コロサイ1・19-20)

このようなことがイエス・キリスト以外でできるだろうか。

単なる被造物では、何も贖うことができない。

どんなに善人であろうと、人間はみな自分自身が罪人であり、その罪のために自分が代価を払わねばならない。他人の罪を負うことなど不可能である。

じゃあ、動物ではどうか。動物は人間よりも低い被造物である。しかも、動物を含め被造物は、アダムの堕落とともに堕落しており、聖めが必要な状態にある。

だから、他者を聖めることなど不可能である。

人間も動物もいかなる被造物も贖いをする価値がない。

だから、イエス・キリストしかいないのである。

完全に律法を守り、罪を犯さず、しかも、神であられるお方しか、被造物全体の贖いはできない。

薄汚れて穴が開いている猫ご飯用の茶碗を『何でも鑑定団』に持っていって鑑定してもらうだろうか。

イエス・キリスト以外に救いの道を提供するあらゆる宗教や教えは、まさにこのようなものだ。

 

 

2008年5月4日

 

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