ネロは文字通り売買を禁止したのか?


<Q>
黙示録で「666の数字がない物は、物を買ったりすることはできない。」とあります。

黙示録がネロ時代の物であるということは、

ネロの時代に既にそういうことが起こったと考えていんですよね?

<A>
まず確認しなければならないのは、黙示録は「預言」であり、預言の言葉で書かれているということです。

旧約聖書を読めば分かりますが、預言の言葉は文字通り解釈してよい部分とそうではない部分があります。

「天が消えうせる」とか「自然界の諸要素は熱に溶け尽くす」とか「滅び去る」という表現は、旧約聖書の預言の中において数多く使用されています。

イザヤはエドム人への裁きの預言の中において「天は巻物のように巻き上げられる」(イザヤ 34:4)と述べています。士師記5・5では、「山々は、…イスラエルの神、主の御前に溶け去った。」と述べています。もちろん、こういった個所を文字通り「天の消滅」や「山の溶解」と解釈できません。なぜならば、それは文字通り起こらなかったからです。

同様に、黙示録においても文字通り解釈してはならない箇所があります。

目がいっぱいついている生き物(4・6)、人の顔をし、ライオンの歯を持ち、金の王冠をかぶり、さそりの尻尾を持つイナゴ(9・6)、ライオンの頭とさそりの尻尾を持ち、火と煙を吐く馬(9・17)、火を吹く預言者(11・5)を文字通りのものと解釈することはできません。


「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。」(黙示録13・16−17)

さて、この箇所を考える際に、これを文字通り解釈してよいのか、それとも象徴と解釈すべきかは、他の類似した聖書箇所を見るべきでしょう。

エゼキエル8章では、イスラエルの人々に悪がはびこっており、裁きの寸前の状況が描写されています。そして、9章で裁きが行われます。

この方は私の耳に大声で叫んで仰せられた。「この町を罰する者たちよ。おのおの破壊する武器を手に持って近づいて来い。」
見ると、六人の男が、おのおの打ちこわす武器を手に持って、北に面する上の門を通ってやって来た。もうひとりの人が亜麻布の衣を着、腰には書記の筆入れをつけて、彼らの中にいた。彼らははいって来て、青銅の祭壇のそばに立った。
そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向かった。それから、腰に書記の筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ている者を呼び寄せて、
主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」
また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。
年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよ。」そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。
ついで主は彼らに仰せられた。「宮を汚し、死体で庭を満たせ。さあ行け。」彼らは出て行って、町の中で打ち殺した。
彼らが打ち殺しているとき、私は残っていて、ひれ伏し、叫んで言った。「ああ、神、主よ。あなたはエルサレムの上にあなたの憤りを注ぎ出して、イスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。」
すると、主は私に仰せられた。「イスラエルとユダの家の咎は非常に大きく、この国は虐殺の血で満ち、町も罪悪で満ちている。それは、彼らが、『主はこの国を見捨てられた。主は見ておられない。』と言ったからだ。
だから、わたしも惜しまず、あわれまない。わたしは彼らの頭上に彼らの行ないを返す。」
ちょうどそのとき、腰に筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ているその人が報告してこう言った。「あなたが私に命じたとおりに私は行ないました。」(エゼキエル9・1−11)

エゼキエルは、この記事を幻の一部として語っています。

すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪のふさをつかんだ。すると、霊が私を地と天との間に持ち上げ、神々しい<幻のうちに>私をエルサレムへ携え行き、ねたみを引き起こすねたみの偶像のある、北に面する内庭の門の入口に連れて行った。 (エゼキエル8・3)

ですから、9章における「裁き」も、そして、「額にしるしをつけ」るということも、象徴表現であることがわかります。

この額のしるしは、エルサレムの住民の霊的状況を象徴しています。額にしるしを持つ人々は、神に忠実な人であり、ない人は不忠実な人々です。

しるしがある人は殺されず、しるしがない人は殺されます。この箇所は、子牛の像を拝んだイスラエルに対するレビ人の裁きを連想させます(出エジプト記32章)。

イスラエルは、契約を破ったために処刑された。同じように、エゼキエル書においても、人々は、契約を破り、異なる神に仕え、悪に染まったので処刑された。

この箇所から、「額にしるしを持つ」人々がどういう人か分かります。つまり、「しるし」は、契約に属することを象徴している。

黙示録では、獣に忠実な人にしるしがつけられています。彼らは、獣と契約を結び、獣から契約の恵みを受けていた。つまり、しるしを帯びている限りにおいて、殺される心配をする必要はない。生活の面倒も見てくれる。逆に、しるしを帯びていないクリスチャンは獣に殺された。

実際、獣ネロによって、クリスチャンは殺害された。斬首され、たいまつとして燃やされた。

しるしを帯びている者には、「買うこと」と「売ること」、つまり、経済活動が許可された。

エゼキエルにおいて、神が生殺与奪の権を持って、不忠実な者を裁く権利を持っていたのと同じように、黙示録において、獣がそれを持ち、彼に不忠実な者を裁き、彼らの生活全般に権力を振るった。

黙示録13章の「売買の許可」は、獣が契約のメンバーに対して全的主権を行使したということを象徴的に示しているのであって、必ずしも文字通り行われたかどうかという点にこだわる必要はないと考えられます。

 

 

2009年8月26日

 

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