今日のキリスト教の教えはなぜ具体的でないのか?


今日、クリスチャン政治家の講演会とか、政治や経済に関するクリスチャンの講演や書物は、ほとんどすべて、ノンクリスチャンのそれと同じである。

クリスチャンがしゃべるからというので何か期待すると裏切られる。

あるクリスチャン議員の防衛に関するメッセージは、「防衛について祈りましょう。」ということだけだった。

なぜクリスチャンは聖書から独自の政治論や経済論、防衛論を語れないのだろうか。

それは、教会が旧約律法を喪失したからである。

旧約律法には、この世界を統治するためのルールが記されている。それは、政治や国防にまで及んでいる。

このような知恵の源泉をこれまで世界、いや、クリスチャンまでもが利用できなかった。

サタンは、我々が旧約律法を捨てるように画策してきた。たとえ旧約律法を捨てなかったにしても、それに触れることを思いとどまらせてきたのである。

ためしに、あなたの教会において、旧約律法を社会や個人の生活に適用しましょう!と叫んでみてほしい。

おそらく、追い出されるか、干されるかどちらかだから。

サタンの教会に対する隠然たる支配はこのように旧約律法を死文化することに成功してきた。

教会は、旧約律法を適用できなくなっているため、教会の牧師のメッセージはまったく具体性のないものになっているのである。

教会員はほとんど具体的なテーマについて教えを受けることができないのである。

「聖書の教育観」「聖書の刑罰観」「聖書の経済観」「聖書と株」「聖書と貨幣」「聖書とスポーツ」・・・こういった具体的なテーマについて、誰か教えてくれるだろうか?

いや、今日、誰も教えてはくれない。教会に行っても、クリスチャン政治家の講演会に行っても、語る内容は、「世俗的○○観」か、「とにかく祈りましょう」というものでしかない。

旧約律法を取り戻す以外に、我々は具体的な指針を得ることは不可能である。

 

 

2006年3月30日

 

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