なぜ日本人は大戦の評価ができないのか?


この元外交官は、「太平洋戦争の戦争責任というものは、道義的にはあっても、法律的にはない」と公言している。

交戦権は国の権利の一つであって、戦争を始めることすなわち悪というおきてはない。

日本がアメリカと戦争を始めたことに法律的な責任はなかった、と。

たしかに大日本帝国憲法によれば、そうなのかもしれないし当時の国際法ではそうなのかもしれない。

しかし、もし敗戦して誰も責任を負うべきではないとしたら、そのような法律は欠陥法といわねばならない。

無謀な戦争を指導した者の責任を問えない法律は、悪法にちがいない。

この元外交官は、おそらく経験論者である。

世界を先在的に支配する超越法、つまり、「自然法」とか「聖書律法」とかを信じず、もっぱら実定法のみを信じる人間であろう。

彼は「国の政策に道義とか倫理を持ち込むと間違うことが多い。事実だけにこだわるべきだ。」という。

そういえば、「新しい教科書を作る会」のある学者も同じようなことを言っていた。

「今の道徳規準で、過去のことを裁くのはおかしい。だからあの戦争を侵略だ何だと批判するのはおかしい。」と。

これらは、超越法を無視した考え方である。

その時、その時の考え方、法律によってしか、人間は人間や組織を裁くことができないと考えるならば、ヒトラーのユダヤ人虐殺も裁けないし、スターリンの粛清も裁くことができなくなる。

元外交官は「歴史から教訓を学ぶことを期待するな」とも言っていた。

こういった現実オンリー主義は、思想の伝統から言えば、アングロサクソンに属する考え方である。

ヨーロッパ大陸の思想的伝統は、ドグマチズム、宗教教義的である。

ヨーロッパ近代の思想的発展は、大陸の思想家の独断論への傾斜を、イギリスの思想家が現実主義によってチェックを入れたことに基づいている。

「世界は絶対精神の発展の過程である」「人間理性によって世界の本質を理解できる」というような大陸のドグマチズムに対して、「本当にそうですか?本当に人間は理性によってものの本質、世界の本質、歴史の意味など理解できるのですか?」と冷めた批判をしたのがアングロサクソンなのである。

私は、大陸のドグマチズムも、経験論も極端な考え方として拒否する。

大陸の超越的自然法も、イギリスの現実オンリー法も拒否する。

大陸の独断論も、イギリスの実用・功利主義も拒否する。

日本人がこれまで「あの戦争の評価をしっかりしなかった、または、できなかった」理由は何か。

それは、基準がないからである。

皇国史観のような独断論で失敗したが、だからといって、超越的原理なしの英米流現実主義にもなじめない。

ほとんどの日本人は、「今の倫理基準で、先の大戦を批判できない」などという現実オンリー主義では、割り切れないと思っている。

解決は、聖書信仰にしかない。

世界には、一人の神がおられ、その神が聖書において超越法を定め、人間は、それによって、過去・現在・未来のあらゆる出来事を評価し、反省することができる。

聖書の神を避けて、歴史を評価することは永遠にできないのである。

 

 

2006年8月26日

 

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