献金してくださった方に感謝いたします


最近、銀行口座または郵便貯金口座に献金をしてくださった方々に感謝いたします。

この働きは完全独立しており、どこの団体からの援助もいただいておりません。それは、変な言い方ですが、「好きなことを言う」ためです。

ひも付きですと、どうしても言いたいことがいえません。それで私が述べていることに賛同してくださった方もしくはそれを認めてくださった上で助けてくださる方以外からは献金をいただいておりません。

このHPで述べていることは、幼い頃から神に示されてきたことであり、私が生まれてきた意味がそこにあるというような本質的なものです。もしこのことを言わなければ私は、生きている意味がないくらいのことであります。

旧約律法を社会に適用するという考えの原型はすでに中学か高校のときにありました。教会の牧師がなぜ申命記から講解しないのか、不思議に思っていました。

なぜこの問題意識が頭に浮かんだのか、ラッシュドゥーニーの聖書律法綱要を読んだ時に氷解しました。

ある意味で、「同じことを考えている人がこの世界にいたんだ!」と驚きました。

それと同時に、私の教会に同じ時期にまったく同じ本(グレッグ・バーンセンのTheonomy in Christian EthicsとラッシュドゥーニーのInstitutes of Biblical Law)を読んでいた人物が偶然に隣にいて、まったく同じ問題意識を持っていたというのも、奇蹟でした。

それはT牧師ですが、彼は今もメールでやりとりしています。

実は、このような出来事は、外国でも起こっていて、私のような問題意識を持つ人が南アフリカやブルガリア、アメリカなどにもいて、同じ体験をほぼ同時期にしているのを聞いてびっくりしました。

こういうシンクロニシティは、神が世界において今、新しい時代を作ろうとされていることの証拠だと思います。

今私の考えを教会で言うと、まず追い出されます。

ほとんどの教会は、何らかの形で律法に対して悪いイメージを持っており、「おきてに縛られるな」という教えが流行しています。

しかし、他方で、ちゃんと聖書に従え、とも言っているので、矛盾していることを言うのですが、しかし、堂々と掟に従え、というと排除されてしまいます。

その他にも、今の教会が拒否するような内容で、私が不思議な導きで神様から言えと命令されていることがいくつかあるため、私が独立以外で何かをなすことは不可能です。

最近、家庭集会に招かれているアメリカ人にS氏の研究所を紹介したところ、S氏が彼に「トミイさんは教会に行っていない」と言ったらしい。

みなさんにご理解いただきたいのは、私は、母教会において牧師補の任職を受け、その後、その教会を出た後で、1996年1月に3人の牧師に按手礼をしていただきました。(私から按手礼をしてください、と言ったのではなく、不思議なことにその先生方から言い出してくださった。)

ですから、独立伝道者として教会の認可をいただいているので、何か教会の権威に逆らって行動しているわけではないことをご理解いただきたいのです。

また、ウェストミンスター神学校を出たI牧師といっしょに教会活動をしていましたが、彼は「私は再建主義のシンパだが、再建主義を専門に伝える使命は与えられていない」ということで離れていきました。

今、同じ考えに立つ人とともに礼拝を「毎週」もっています。

福音派の兄弟姉妹と仲良く信仰生活を送っていた頃の自分と、今のように独立し、一般のキリスト教界から孤立している自分と比較すると、天と地のような気がしますが、しかし、これは神の選びで、自分が生まれてきた意味だと考えておりますので、教えを曲げてまでも昔の仲間のもとに帰る気持ちはまったくありません。今の境遇を甘受しなければならないと思っております。

かつてラッシュドゥーニーの仲間の一人が日本に出張のおりに会って話をしましたが、「この文化的に異質な日本社会においてあなたのような活動をすることは非常に困難でしょう」といわれました。

たしかに、そもそもクリスチャンであること自体が孤立を意味するのに、さらにそのクリスチャンのなかでも浮いてしまう社会的状況は非常に厳しいものがあります。かつては、毎日のように読むことができた本が、この日本経済の状況の結果、あまり読めなくなりました。

ここ一週間は翻訳の締め切りが28日に迫っているので、最後の校正に忙しい状況が続いております。この事情をご理解いただけますよう心よりお願い申し上げます。

献金していただいた方々に神様の豊かな祝福があることをお祈りいたします。

 

 

2004年6月26日

 

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