キリスト教と科学を対立概念とするな


<Q>
まぁ、ブルトマンや八木誠一の著作は、キリスト教というよりは「宗教哲学」といったほうがいいのかもしれません。そして高校・大学では、歴史科学的にキリスト教を講義しますね。

<A>
歴史・科学とキリスト教と対立しているかのような言い方ですが、この2つはけっして対立概念ではありませんね。

キリスト教は科学に反する立場であると考えるのは、科学そのものを誤解しているからです。

神は自然界を科学的探求の対象として創造された。

世界を法則が支配する場として創造された。

もし世界が法則にしたがってではなく、気まぐれに動いているならば、科学は成立しません。

時間と場所によってまったく物体が異なる動き方をするならば、我々はそれを応用することはできませんね。

神の御心は、この世界に働く法則を知り、それを応用して、地上を機械や器具を利用して治めることにあります。

だから、キリスト教と科学は対立しない。

「え〜、だけど、キリスト教は科学的法則と矛盾する奇蹟の記述がある聖書を教典とするではないか」と聞くかもしれませんが、奇蹟は反科学ではありません。

奇蹟とは、神がこの自然界を治めるために定めた法則を越えた働きなのです。

自然法則は神のしもべです。神から委任を受けて支配しているだけです。神は常にその働きを監督しておられる。

ちゃんと自然法則が働くように見ておられる。これが摂理です。

しかし、時々、自然法則を差し止めて、神が直接に物体に働きかけることがある。

処女が子供を産んだり、太陽が一日沈まなかったり、人間が宙に浮いて昇天したり、・・・

こういったのは「非科学的」ではなく「超科学的」なのです。

この世界の主人である神が、科学法則に任せずに自分で手を出した場合に起こることなのです。

キリスト教信仰とは、神が自然界を自在に支配される方であることを信じるものであって、非合理的信仰、神秘的オカルト的信仰ではない。

たとえば、通常は自動運転に委ねている火力発電所で、ある時、手動に切り替えて運転しても、非合理的なことを行ったことにはなりませんよね。

手動操作によって、いつもとは違う動き方をした発電所を見て、こんなことはありえない。非科学的だなんて叫ぶ人はいませんよね。

ブルトマンとか八木とか、今の学校が信じている科学とは、本当の科学ではなく、「人間の認識の及ばない世界を無意味なものとして切り捨てて考えよう」という近代哲学の合理主義思想によって歪曲された科学なのです。

「霊的世界、神、天使、・・・こういったものは、我々の知覚・認識能力を超えた事柄であり、確実に存在するとも、その性質を確実に記述することもできない。」

近代の哲学者はこう考えた。しかし、彼らはそこに留まらなかった。

彼らは「確実に知りえないのだから、切り捨てよう。そういうものはありえないものであるとしよう。」と延長した。

しかし、お分かりのように、この延長は越権行為です。

人間が科学的に認識したり、証明することができないものを「証明できません」というだけならよいが、「そんなのありません」とまでは言えない。

絶対に入ることが許されない部屋について「中のものを知ることはできません」とは言えるが、「だから、そこには何もないのです」とは言えないのと同じです。

だから、近代人は、「神とか天使?そんなの信じているの?馬鹿じゃない?」という態度には根拠はまるでない。

本当の科学とは、「我々人間には証明できない世界がある」と認めるので満足します。

近代人が信じている歪んだ科学は、それで満足できずに、「その証明できない世界は存在しないのだ。」と僭越にも断言します。

キリスト教から霊的な世界や奇蹟を追い出すブルトマンや八木などの思想は、このような歪曲された科学観に基づいて作られた「擬似キリスト教」であり、異端です。

自分はいかにも科学的な姿勢をもっていると見せかけているだけであって、ぜんぜん科学的でもなんでもない。

キリスト教でも科学でもない中途半端な3流カルトです。

 

 

2004年12月31日

 

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