自分を宗教に基づかない中立で公平な人間であると誤解している勘違い人間へ


宗教が政治に関わるとろくなことがない、という人々の根本的な間違いは、「今の政治は宗教に基づいていない」という誤解である。

宗教と無縁な政治などあり得ない。

彼らがどうして自分がやっていることを宗教と認識できないかというと、「宗教とは、祭儀が行われ、専門の宗教施設において行われるもの」という先入観があるからだ。

今の平均的日本人が学校などで教えられている世界観は宗教である。

「いや〜、学校教育は中立な立場にたっており、いかなる宗教的教義も持たない」という人が多いが、ちょっと思想史を調べれば、教育が思想的に中立などということが絶対にないということが分かるだろう。

実際、もし宗教と現在の政治活動が無縁であるならば、同じテーマにおいて対立するはずがないのだ。

ぜんぜん別の領域のことであるならば、意見が対立することなどあり得ないはずだ。

しかしどうだろうか。妊娠中絶の是非は?死刑制度の是非は?同性愛結婚の是非は?刑務所制度の是非は?不換紙幣の是非は?・・・

聖書が扱う問題と今の政治が扱う問題とどうしてこれだけバッティングするのだろうか。

おわかりだろうか。宗教と政治を峻別することなど不可能なのだ。

いや、はっきり言おう。

すべての政治は、宗教活動であると。

宗教的に中立な政治などあり得ない。

だから、今の政治家は、タリバンやブッシュなどを「原理主義」と非難できないのだ。自分も「原理主義」だから。

自分の宗教教義を政治に持ち込んでいるから。

自分の世界観を政治に持ち込んでいるから。

自分のことを中立と誤解し、自分だけは偏見や先入観から自由であると考えている人間が日本の大多数を占めているのは、そのように学校で教育されたからだ。

「我々は、科学的に思考するから中立的だ」などという妄想も同じ。

科学的思考(論証的思考)は、個別の科学的事実に関しては通用しても、世界観には通用しない。

世界観を作るときに、人間は直感的思考をせざるを得ない。

例えば、ある物理現象や心理現象について思考し、法則を見つけ、その法則に基づいてある現象を評価できるかもしれない(厳密に言えばできないのだが)。

しかし、ある物理法則とある心理法則を結びつけて世界観を作るには、そこに直感が介在せざるを得ない。直感は、科学的方法ではないのだから、人間は世界観を作る場合に科学を捨てなければならない。

例えば、面接において、面接担当官は、もっぱらその人物の学業成績や品行記録などによって「数量的」評価はできない。

なぜ面接をするかといえば、人柄や性格などを「直感的に」評価するためだ。そして、その直感的評価がなければ、人選を間違うことになると知っているからだ。

人間の生活において直感は重要な位置を占めるので、生活を徹底して科学的にすることなど不可能である。どうしたって宗教的にならざるを得ない。

ある文化が科学的であるかどうかは、「どれだけ科学的知識を利用するか」ということであって、「科学的知識だけを利用し、宗教的知識をまったく利用しない」文化など存在しないのだ。

宗教的直感を排除して生活も文化も成立しない。

あらゆる社会は、科学的であると同時に宗教的であり、それゆえ、「科学的だから中立」なんていう自己評価はありえない。

今流行している、「アメリカはキリスト教原理主義者によって支配されているから中立ではなく、危険な体制になった」という判断は、それこそ学校教育による洗脳に基づく危険な思考である。

そういった人間に聞きたい。

「じゃあ、あんたは中立なのか?」と。

 

 

2008年3月2日

 

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