選ばれていない人に期待してはならない


習い事をしたことがあるだろうか。続くものもあれば、続かないものもある。

昔習字を習ったことがあるが、2回くらいでやめてしまった。

かと思えば、ギターは中学からずっとやってきた。最近は弾いていないが。

続くものと続かないものがある。

これは、思想も同じだ。自分にしっくり来るものと来ないものとがある。

神は人間を選んで、程度をお定めになった。

このレベルで留める人、さらに進む人。極める人。。。。

野球でも、草野球から大リーグまでレベルは様々だ。

しかし、ある選手をどのレベルにするかは神の決定による。それは、才能も含めて。

どんなに才能があっても、チャンスが巡ってこない場合もある。これもすべて神の決定。

クリスチャンでも、どのレベルまで啓示しようと神が決定されたかによって、その人はどのレベルまで進むかが決まる。

牧師や伝道師になって専門にやる人は、そういう選びがなければできない。

自分の好みや興味を中心にしていたら続かない。

だから、簡単に人間関係や感情問題などで止めてしまうようなレベルの働き人は働き人ではないのだ。

続けられないのは、「選ばれていない」からだ。

選ばれていて、それに使命を与えられている人間は「止めたくても止められない」。

ちょっとしたことで働きから離れていく人は、そのレベルの人なのだ。神が「この人には、普通の知識しか与えない」と決定されたためだ。

選ばれている人なら、こちらが止めても、自分でやりつづけるだろう。

どんなに困難があっても、くじけないでやりつづけるだろう。

なぜならば、「神の任命」があるから。

神が選ばれた人は、完全に縛られている。それ以外できない。

それ以外の仕事が空しくて耐えられない。

一度離れてもまた戻る。

彼(または彼女)は「それ専用」に作られている。

だから、それしかできない。人生においてそれだけをするように召されているので、あらゆる躓きを乗り越えて仕事を成し遂げる。

私は、選ばれていない人に期待しない。

馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない。

信仰とは、神の選びの問題だから、我々は人に対して何も要求できない。こちらとしてはただ情報を提供するだけだ。

 

 

2007年12月6日

 

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