無限の愛の教えは人間を駄目にする


責任は一方通行ではない。

仕事をする場合に、労働者の責任は依頼主の要求にこたえる仕事を提供することである。

その仕事の限界を明確に決めることは難しいが、しかし、それは存在する。

そして、その設定された限界を超えた側には社会的な制裁が加えられる。

たとえば、依頼主が仕事の依頼だけではなく、自宅の引越しの手伝いを求めてきたとする。

それは、契約の中に含まれない。

依頼主が「引越しの手伝いもできない業者には仕事を渡さない」というならば、それは、依頼主の側に問題がある。

ある意味で独裁者の心理である。

仕事を責任を持ってこなした労働者の側には責任がない。

日本の商習慣に存在するこのような「境界線の不明確化」はどうしても取り除かねばならない要素である。

もちろんある程度の遊びは必要だ。

労働者が権利を主張しすぎることによって、仕事がスムーズに進まないことがある。

共産主義国から来た外国人がウェーターをやると、「私は店舗のこの区域の担当なので、あなたの区域については対応できません」というようなお役所仕事をやることが多い。

その点で日本人のサービスは世界的に見てもっとも優秀である。

しかし、行き過ぎがあるのも事実。

企業に勤めていたときに、深夜まで先輩に付き合わされて残って仕事をした。

「先輩よりも先に帰るとは何ごとだ」と。

こういう不文律によって、日本の労働者は無限の責任を背負わされてきた。

今の仕事でも、締め切り前に原稿の提出を求められることがあるが、それならば、最初から締め切りを前に設定しておいてほしい。

計画を立てて仕事をしているので、計画外の要求をされると、ペースが狂う。徹夜などをして対応することになる。

あまりにもそっけなく「そんなことできません」というのも大人げないので、ある程度は対応する。しかし、過剰になるならば、客先を変更せざるをえない。

聖書は、あらかじめ決定した約束や契約を重視すべきだと教えている。

責任は双方にある。

一方が過大な責任を負うような関係は非聖書的で、腐敗した関係である。

人間関係は、一方が行った違反によって解消される。違反の程度には差はあるが、原則として、いかなる違反に対してもいずれの側も責任を問われるべきだ。

このような「責任」に対して、現代の異端は、「無限の愛」を唱える。

「制限なく要求に応えるのが愛だ」と。

多くの場合、このように唱える人々は、けっして自分の側にではなく、相手に責任を課す。

つまり、自分のことは棚にあげて「無限の愛」を相手に求める。

だから、今の無律法主義のキリスト教の教えを適用すると、社会はめちゃくちゃになるのだ。

彼らは「我々はいかなる掟にも縛られない」という。

「我々は、無限に人間を愛さなければならない」と。

実際は、その適用は相手にのみ向けられる。

だから、このような教えのもとで、クリスチャンは幼児化する。

わがままに教理的な裏づけが与えられるので、教会における教育は、人間を駄目にしている。

義務を果たさない人間を許してはならない。

義務を果たさない場合には、謝罪をして関係を修復すべきだ。

約束したならば、それを果たせ。

果たせないならば、謝るべきだ。

 

 

2010年7月30日

 

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