聖書は支配と搾取と虐待のためのシステムを記している?


旧約聖書や新約聖書を「支配と搾取のシステム」とする考えは間違いだ。

ある陰謀論者は、イルミナティの「世界人類家畜化計画」の基礎は聖書の文化命令にあると言う。

モーセ律法やイエスの教えなどが、「虐待と奴隷化」のためであったという人々もいる。

まったく聖書の内容を知らないから起こる誤解である。

聖書の統治とは、「虐待と奴隷化」ではなく、逆である。

神がイスラエルに対して律法を与えたのは、「奴隷の家エジプトから解放された」民に対してであった。

だから、律法は、束縛ではなく、解放である。

誤解が多いようだが、ユダヤ人は、律法を束縛などと考えていない。

彼らは律法を民族の誇りとすら考えている。

神はユダヤ人を祝福するために律法を与えてくださったと考えている。

どういうことだろうか。

申命記において、神はイスラエルに律法を与えられた。

それは、彼らが繁栄し、祝福されるためであった。

善を行えば祝福され、悪を行えば呪われる。

これが律法の因果律である。

異邦人は、律法がないため、自分の考えで間違った道に進み、のろいを受けている。

例えば、律法の知識があれば、幸せを得るために姦淫や不倫をするはずはない。

なぜならば、律法には、不倫をすることは、自分のふところに炭火を掻きいれることと同じだとあるから。

つまり、大やけどを負うことになる。

イスラエルは、律法の知識によって、そのような罪を避けることができた。だから、遵法的なイスラエル人は、道に外れることがなく一生を安全に暮らすことができた。

しかし、異邦人は知識がないから、サタンのいろんな罠にはまって、幸せを求めながらかえって不幸になる。

神は、我々を幸せにしようとして律法を与えてくださったのである。

律法は、自然法則と似ている。

自然法則に逆らって誰も幸せになれない。重力の法則に逆らって20階の窓から飛び降りることは自由ではない。それは、自滅である。

律法とは、人の歩むべき道、平和と繁栄と自由への道。

だから、聖書は、支配と虐待のために書かれたというのはまったくの誤解である。

ひねくれた心を捨てて、よ〜く読めば分かる。

 

 

2008年5月21日

 

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