神の国はまず家庭から始まる


現代文化では、結婚がロマンチックに語られることが多い。なぜならば、ヒューマニズムは、ロマン主義だからだ。

ロマン主義は、カント哲学の流れにある。

カント哲学とは、「人間教(ヒューマニズム)」である。

つまり、「神ではなく、人間が世界の王である。人間は、神の言葉なしで自分だけでやっていける。」という宗教だ。

結婚や恋愛というものが、人間中心になった。

結婚関係が、人間だけで成立する関係になった。

神を除外する関係は、ことごとく呪われる。

だから、結婚が祝福されない。

創世記によれば、結婚は、御国建設のために制定された制度だ。

神はアダムに「地を従えよ」と言われた。世界をエデンの園に変える使命が与えられた。

その助け手としてエバが与えられた。

だから、結婚とは、「地球全体をエデンの園にする」という使命の実現のために存在する。

この本来の使命を夫婦が見上げるときに、関係は正常化する。

結婚は祝福され、神が様々な助けを与えられる。お金や子供、地位、権力、いろいろなものが与えられる。

結婚を「神の国建設の第一歩」と考え、そこに照準をあて続けるかどうか。

それが祝福された結婚の秘訣だ。

しかし、カントの人間教が学校教育を通じて侵入し、クリスチャンまでもがそれに汚染された。

結婚を御国建設と無関係に考えるようになった。

それを後押ししたのがディスペンセーショナリズムである。

ディスペンセーショナリズムは、「我々がこの地上を考えることなど不可能だ。クリスチャンは地上のことにタッチするな。ただひたすら再臨のイエスを待て」という教えだ。

「地を従えよ」という命令に対する真っ向からの挑戦である。

このディスペンセーショナリズムを作ったのが、イエズス会士ラクンザだ。

イエズス会は、グノーシス主義者のイグナチウス・デ・ロヨラによって創立された。

グノーシス主義は、「人間は知識という光によって救われる」とする異端だ。

「イエスではなく、知識こそ救い主だ」という教えは、啓蒙主義になった。

啓蒙主義は、デカルトを生み、デカルトはカントを生んだ。

流れは、グノーシス―啓蒙主義―カント―人間教だ。

我々は、教会の中にこのような悪魔の流れが入ったことを自覚しなければならない。

ディスペンセーショナリズムを通じて、福音派は、悪魔の流れに乗ってしまい、本来の目的を忘れて人間中心になった。

福音派の教会で歌われるウォーシップソングの歌詞を見てほしい。

自分の幸せのためにイエスを利用する歌詞が多い。

彼らはすっかり人間教に汚染されたので、我々神中心主義の教えを受け入れない。

読者は、おそらくこういった汚染されたキリスト教に違和感を感じておられることだろう。

これがなぜ教会がおかしくなったのか、理由だ。

そのような異常が結婚関係や様々な人間関係に顕著に現れている。

どの組織でもそうだが、目標に目を留めず人間に目を留めると、互いのあらが目について、際限のない争いが生まれる。

配偶者と一緒になって神の国建設という目標に目を留めることができなければ、結婚関係を維持することは非常に難しいだろう。

我々の立場に立つと、だいたいにおいて奥さんがおかしくなる。

なぜか。

奥さんはまだ福音派の人間教になれているからだ。向こうの霊の水に慣れているので、こちらの立場に強烈な違和感を感じるからだ。

一緒になってこちらに転向できるならば幸いだ。

しかし、難しい。まず家庭の中に神の国を建設する作業からはじめなければならない。

イエスは神の国建設がまず家庭内の戦いから始まると言われた。


なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。(マタイ10・35)

父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。(ルカ12・53)

我々が変わると、人間関係も変化する。

友人だった人が離れていく。

同じ霊を持つ人々しか我々の周りには残らないだろう。

大切な人間関係をあきらめなければならないかもしれない。

イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。(マルコ10・29-30)

 

 

2009年11月3日

 

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