現代人の陥りやすい認識論上の罠2


http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/406.html

言い忘れましたが、この著者を「B」さんと称します。

Bさんは、「教祖なり指導者の『教え』に照らし合わせて自分を『反省』するのではなく、」「自らの観察と経験を自らの内に取り入れて自らの認識の未熟さや過ちを認識する」という「内省」の作業が必要だと言います。

しかし、こういった「内省」というものが、「教祖なり指導者の『教え』に照らし合わせて自分を『反省』する」行為(つまり、彼が言う「自虐」)よりも優れているということは証明できません。

この「内省」の作業が絶対であると誰も証明できません。

なぜならば、「自らの観察と経験」は絶対ではないからです。

イギリス経験主義は、「観察したというけど、本当に対象を観察しているの?経験したというけど、本当に対象を経験しているの?」」と問いました。

たとえば、目の前にあるコンピュータを見て、それについて思考したと簡単に言うが、それは単に「目の前にあるコンピュータが網膜に映った像」について思考したことに過ぎないのではないか、と問い掛けました。

その像について思考したことが、コンピュータそのものについて思考したことになるのか?

誰も証明できません。

百歩譲ってコンピュータについて思考していることであるとしても、「その」コンピュータ(個物)について思考したことが、コンピュータ全般(類)について思考したと言えるのか?

科学において、個物を思考したことは類について思考したことになる、と考えられているのは、「約束事」であって、証明された事実ではないのです。

たとえば、持っているコップを離してそれが上に行くか下に行くか調べるとします。

1万回の試行ですべて下に行ったとしても、「コップは絶対下に落ちる」と断言することはできません。

なぜならば、1万1回目にどうなるか誰も知ることができないからです。

「いや〜、それは下に落ちるに決まっているだろう」と言っても、それは「経験的類推」によっているだけで、証明することはできません。

「いや〜、引力の法則によって下に落ちるに違いない」と言っても、その法則が次の瞬間に実際に働くかどうか証明できません。

帰納法的認識論を厳密に追求すると何も「絶対にそうなる」と主張できないのです。

これは帰納法的認識論に固有の限界であり、それゆえ、経験科学の真理とは、「反証がない現時点における暫定的真理」に過ぎないのです。

この例でいえば、あくまでも個々のコップの現象に関する思考は、その個々のコップに関する思考にとどまり、コップ全体に関する思考、さらには、「物体」全体に関する思考になると証明することはできません。

つまり、「このコップを落とす実験」は「このコップに関する知識」を導き出すだけで、「コップというもの全体」や「物体というもの全体」に関する知識を導き出せることを証明できません。

「10000回試行により、物体は下に落ちると証明できた」というのは、「今のところ反証がないので、こういうことになっています」というだけの話しなのです。

ヨーロッパ大陸の哲学が、安易に「人間は自分の観察と経験によって、また自分自身の頭を使って考察すべきだ」と主張したのに対して、イギリス経験論は「え〜っ、そもそも観察と経験による考察ってできるものなんですか?」と問いただした。

キリスト教では、「この世界は神によって創造された。神は物体の運動の法則を定められた」と主張するので、個物についての考察は、当然のことながら、類についての考察と考えることができる。

しかし、人間理性だけを土台として、「すべてを疑え。神が世界を創造したかどうかも疑え。世界に運動の法則が働いているかどうかも疑え。」という認識論に立つならば、「個物について思考したことは、類について思考したことになる」ということは証明できなくなるので、原理的に科学は成立しない。

この認識論に立つ科学とは、「個物について思考したことは、類について思考したことになる」としよう、という「約束事」によって成立しているのです。


Bさんのような考え方は、「宗教も教典も確実に正しいと言えない。確実に正しいと言えるのは、今疑っているこの私だ。この私から出発して世界を認識して行こう」と述べたデカルトの認識論に基づいています。

しかし、経験主義は、その「私の認識」という絶対的と思われた土台を破壊してしまった。

「宗教教義を絶対視し、そのパラダイムの中だけで考えていくという『自虐』を止めなさい」という人々に対して、経験主義者は、「じゃあ、あなたも自分の認識能力を絶対視するのは止めなさい。自分の思考というパラダイムの中だけで考えていくのは『自虐』だよ」と述べた。

端的に言えば、経験主義は、「最終判断者としての権威を『私』から奪った」のです。

この流れをわきまえていないクリスチャンが、安易に大陸合理論の認識論を受け入れて(もしくは、カントの変形合理論を受け入れて)、聖書すらも疑うようになり、自らを聖書の上に置き、実質的に異端化したのは周知の事実です。

ここまでお読みいただいた方々へ:

この説明は非常に重要であり、近代において教会から力と信仰を奪った主要な問題です。

Bさんの意見は今日でも多くの人々が信じておりますが、認識論における罠にクリスチャンもはまると再び教会はどん底の時代に戻ることになります。

 

 

2005年5月12日

 

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