神や御言葉を残酷・極端と考える倒錯の世界


先日、ニュースで、胎内にいる子供の立体映像の撮影に成功したとあった。胎児が人間であることが明らかになった。
胎児が外の世界に出る準備をしている様子が映し出されていた。

胎児を人間として扱い、堕胎を殺人と考えるよう聖書は求めている。

それゆえ、堕胎者を殺人者として扱うことに異論を唱え、それを極端で残酷だと考える人々は、聖書の神を極端で残酷だとしているのである。

我々は、聖書を越えることを何一つ言っていないのだから、我々の見解に反対することは、聖書の神ご自身に反対しているのと同じである。

考えてみていただきたい。

経済的な理由とか、一身上の都合とか、不倫とか、身勝手な理由で人を殺す人をあわれんで、まったく自分に落度が何もないのに、突然命を取られる人のことをあわれまない、このほうがよっぽど残酷で極端ではないか?

堕胎犯への処罰に反対する人々は、価値観が転倒しているのだ。狂っているのだ。頭がどうかしているのだ。

犯罪者をあわれんで、被害者を足蹴にする。

このような倒錯が常識になっているこの世界で、神や御言葉が残酷で極端だと考えられているのも無理はない。

まともな人間がけなされて、倒錯者が賛美される。

裁きは近い。

 

 

2004年9月1日

 

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