神はこの苦労や努力を求めておられる


昔、お百度参りという儀式があった。願をかなえるために、社寺の入口から拝殿・本堂まで行って参拝し、また社寺の入口まで戻るということを百度繰り返す。

また、水垢離という苦行がある。「神や仏に祈願したり寺社仏閣に参詣する際に、冷水を被り、自身が犯した大小さまざまな罪や穢れを洗い落とし、心身を清浄にすること」(Wikipedia)である。

願いは強く求めなければ聞かれないということだ。

同じようなことが聖書で述べられている。


また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11・5-10)

一度や二度求めて聞かれないからあきらめるといような態度では駄目だということだ。

「あくまで頼み続け」なければならない。

そういう努力、執拗な求めが祈りに必要なのだ。

信仰義認の教理が間違って理解されている。

人が救われるのは、信仰のみによる。

しかし、救われた後において、我々は、「苦労して」神の国を築き上げなければならない。

神はこの苦労や努力を求めておられる。

 

 

2009年10月25日

 

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