再生していない働き人はキリスト教からキリストを除く


今週の日曜日に訪問した教会のメッセンジャーは神学生だった。

神学生のメッセージが悪いとか言うつもりはまったくないが、まったく的が外れていた。

的が外れている場合、「救いようがある外し方」と「救いようがない外し方」とがある。

救いようがある場合は、本質的に聖書がその箇所において言っていることを霊的に理解する能力がある場合。ただ、メッセージの方法や様々な瑣末な点で未熟さがあるという場合。

救いようがない場合は、聖書がそこで何を述べているかをまったく理解できず、霊的な理解力が「まったく」ない場合。

後者の場合は、霊的生まれ変わりの体験がないことによって起こる。

前者は、クリスチャンや教職者としての経験不足、つまり、量的欠点によるが、後者は、質的欠点である。

後者の場合は、神学校に入り、教職者を目指したことそのものが間違っていたのだ。

後者の人々は、キリスト教界のいたるところにいる。

霊的に再生していないのにキリスト教のことをやるとどうなるかというと、キリスト教を、キリスト教に似た異教に変える働きをする。

例えば、マザーテレサのように。

彼女の発言はキリスト不在のキリスト教の典型である。



ただ一人の神がおられ、そしてそれは万人にとっての神です。・・・神の御前に万人は平等です。私は常に、ヒンズー教徒はよりよいヒンズー教徒に、イスラム教徒はよりよいイスラム教徒になるべきだと語ってきました。異なる宗教の人々がともに祈り合うことが間違いだと思ったことはありません。(Mother Teresa: A Simple Path (Ballantine Books, 1995). Compiled by Lucinda Yardey; pages 31-32, 59, xix)

神はどこにもおられるので、神が教会から離れることはありません。ヒンズー教徒であれ、イスラム教徒であれ、クリスチャンであれ、私たちはみな神の子供達です。(Mother Teresa: A Simple Path (Ballantine Books, 1995). Compiled by Lucinda Yardey; pages 31-32, 59, xix)

死とは、命の連続に過ぎません…。すべての宗教には永遠――つまりあの世――があります。もし死が神の家に帰ることでしかないということを正しく説明されるならば、恐れはありません。ヒンズー教であれ、イスラム教であれ、仏教であれ、カトリックであれ、プロテスタントであれ、その他どのような教えであれ、その書物にしたがって帰宅することができるために我々は今生きているのです。(Desmond Doig, Mother Teresa: Her people and Her Work (Fount Paperbacks, 1978, pages 140-141.)

彼女の教えによれば、キリストの贖罪の必要性はない。

キリストなどなくていい。キリストが十字架にかかる意味はない。

ヒンズー教徒、イスラム教徒、仏教徒、カトリック、プロテスタントが、そのままで死後神のもとに帰るなら、どうしてキリストの贖罪は必要だろうか。

彼女は、実質的にキリスト教からキリストを除く働きをして一生を終えた。

キリストによって生まれ変わり、罪をするどく自覚して、必死の思いで救われた人、つまり、再生したクリスチャンから見ると、彼女が生まれ変わった人であるようには見えない。

こういう人はキリスト教の活動をしてはならない。

彼らの欠点は量の違いではなく、質の違いだから。

アダム側にまだいる人間が、あたかもキリスト側にいる人間であるように振舞うことによって、キリスト教の中に異教が広がることになる。

 

 

2008年6月17日

 

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