信仰とは無理やりでも持つべきものである


我々は、信仰というものは自然に心に湧き起こってくるもの、つまり、受動的なものと考える傾向がある。

「強い信仰がもてなくて」とか「自信がなくて」とか「○○さんのように素晴らしい信仰がもてればいいのですが」という人が多い。

信仰とは、「もてるようになるもの」ではなく「もつべきもの」である。

受動的なものではなく、能動的なものである。

「自然に湧き起こるもの」ではなく、「強制的に心に現わすべきもの」である。

不信という下向きに働く力に逆らって、無理やり自分を上昇させることである。

人間は堕落しているので、生まれながらの性質は不信である。

生来、人間は神を疑うものである。最初の先祖はサタンの誘いに乗って、神を疑った。

それゆえ、すべての人にとって不信仰は下向きに働く重力のようなもので、たえず自分を落とすために働いている。

信仰とは、この自然的な力、重力に逆らって、上昇することである。

我々は、重力に逆らって上昇するときに大きなエネルギーを必要とする。

山に登るには、重力に逆らいながら、足を一歩一歩動かして体を前の位置よりも上に置くために努力しなければならない。

それと同じように、信仰も、不信仰の重力に逆らって、一つ一つ努力して身に付けるべきものである。

「体験しないと確信できない」という人は、考え方の順番を間違っている。

「確信」が先で、「体験」が後である。

「体験しないと確信できない」という人は、神を試している。

日本社会は金融が弱いといわれている。ベンチャーが育たないのは、銀行の貸し付け制度が、「不信仰」に基づいているからである。

銀行は、土地などの担保、つまり、目に見えるものに信頼する。

役所なども同じである。何か仕事を回してもらおうとして役所に行っても、「実績はありますか?」と訊かれる。

銀行も役所も「過去」に信頼し、「過去」に投資している。これは、聖書が教える信仰的姿勢ではない。(*)

聖書が我々に要求しているのは、「未来」への信頼である。

まだ実現していないものへの信頼である。

「・・・目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8・24-26)

被造物に対する信仰と、神に対する信仰とを区別すべきである。

被造物に対して疑いを投げかけ、試験することは間違いではない。

会社が、入社希望者に対して試験をしたり、面接することは間違いではない。

なぜならば、被造物は相対者であり、その力は有限だから。欠点もあれば、失敗もあるから。

しかし、神は絶対者であり、その力は無限である。欠点も失敗もない。いやむしろ、創造の前に神しか存在しなかったのであるから、神は基準以外にはなれない。

「この1mの原器は、本当に1mなのだろうか?」と疑う人が愚かなのと同様に、「神は存在するか?神の御言葉は正しいか?」と問う人は愚かである。

我々が神に対して取るべき態度は、常に

「理屈を捨てて、とにかく信じる」ことである。

マリヤは、神の使いから「男の子を産みます」と伝えられた。

「わたしはまだ男の人を知りません」と答えると、神の使いは、

「神にできないことはありません。」といった。

マリヤは、彼に対して、

「お言葉のとおりになりますように。」と答えた。

神は我々に「理屈ぬきの信仰」を求めておられる。

信仰は、「心に自然に現われるもの」ではなく、「無理やり、自分に鞭を打って、現すべきもの」である。

もし信じられないならば、てんかんの子供の父親のように、「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9・23-25) と叫ぶ以外にはない。


(*)
だからといって、ここで銀行の貸し付け制度や役所の前例主義を問題にしているわけではない。

 

 

2004年8月8日

 

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