勝利は聖書信仰の人々に与えられる2



植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。
私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(1コリント3・8-15)

クリスチャンは、「神の建物」である。

土台は、イエス・キリストである。

土台が確かでない場合には、その建物は崩れるように、イエス・キリストを本当の意味において信じない人は、滅びる。

異端の教えに振り回される人は、建物である自分自身を破壊しているのである。

この土台の上に建物を建設するのは自分である。

それは、様々な素材によって作られる。

「金、銀、宝石、木、草、わらなど」である。

自分の人生という建物の材料を選択することに間違うならば、大変なことになる。

なぜならば、すべての建物は「火」で試されるからだ。

神は、個人にしても組織にしても、必ず「火」で真価を試す時を備えておられる。

火で燃えなければ真、燃えれば偽。

火とは、最終審判であると同時に、時間の試練でもある。

時間は、その人の人生が真であるか偽であるかを試す。

長期にわたって生き残る作品は古典と呼ばれる。

古典が生き残ったのは、時の試練に耐えるだけの質を持っているからである。

今日、聖書的でない教えがはびこっているが、恐れるに足りない。

それらは時の試練に耐えられない。

すぐに消えてしまうだろう。

聖書は4千年の歴史を背景に持つ古典中の古典である。

我々が人生という建物を建てる場合に、金銀宝石で建てたいならば、聖書に固執することだ。

聖書的に考え、聖書的に行動したまえ。

そうすれば、あなたの人生は金銀宝石になる。

聖書的に考えず、聖書的に行動しなければ、それは「わらの家」であるから、火をつければすぐに燃える。

土台は据えられているので、救われるが、報いは受け取れない。

このクリスチャンの人生は、報いのない人生である。死後の裁きにおいて、彼は身ぐるみはがされる。

聖書に固執し、あらゆる思想・行動を聖書によって吟味せよ。

そうすれば、あなたは永遠の世界において豊かな報いを得られるだろう。

 

 

2009年1月23日

 

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