彼だけに信頼せよ


クリスチャンはみな預言者である。例外なく、預言の霊が与えられる。

だからクリスチャンになると、霊的な感性がするどくなり、物をするどく見ることができ、ノンクリスチャンがわからないような世界が見えてくる。

あるノンクリスチャンが「詩篇はつまらない。同じことの繰り返しのようだ」と述べたが、それは、霊的な感性がないからだ。

信仰体験を積重ねていくにつれて、詩篇記者と同じ心境を体験し、それゆえ詩篇に共感できるようになる。

ダビデと同じ叫びを叫びたくなる。

霊によって変えられると、そういう心境になる。

ただし、注意しなければならないのは、見えてくれば見えてくるほど孤独になるということだ。

聖書の真理を悟れば悟るほど、話の合う人が限られてくるようになる。

クリスチャンとだって話が合わなくなる。

だから、聖書を学ぶ人は、孤独になることを覚悟しなければならない。ひとたび予定論が分かるようになれば、アルミニウス主義のクリスチャンとは話が合わなくなるだろう。

予定論が分かるということは、視点を人間から神に移すということだから、まったく違った見方をすることになる。

そうなれば、あなたは、教会の中でも孤立する。

今の人間中心の、ヒューマニズムの教えの中で、あなたは孤児になる。

「狭い門から入り、狭い道を進め」とあるように、我々が神に忠実になろうとすればするほど、道は狭くなり、孤独になる。

頼れる人は誰もいなくなるだろう。

そういう状況を覚悟しなければならない。

我々が人間に期待し、人間から何かを受け取ることを期待している以上は、まだ偶像礼拝者である。

キリスト教を愛の宗教だからというので、愛されることを期待する人がいるが、まったくのお門違いである。

「あなたは、神に愛されるために生まれた」などという文句を信じていると、現実はまったく違う世界にびっくりするだろう。

正しい教えは、「あなたは、神に仕えるために生まれた」である。

神や人間を自分を愛する存在として定義づけることは、自分中心という罪の教えの中にいることを示している。

人間の原罪とは、「私の意志は絶対である」とする利己主義にある。

エバは、「神はこの実を食べてはならないと命令されたが、私は私の意志を貫徹したい」と考えて食べた。

エデンの園における話は、「神の意志は絶対である」という思想に対する、「人間の意志は絶対である」という思想の挑戦の物語である。

だから、「あなたは、神に愛されるために生まれた」というスローガンは、「あなたは、神に仕えるために生まれた」というスローガンに置き換えられるべきなのである。

アルミニウス主義に毒された今の教会は、人間中心主義であり、神を利用する教えである。

ディスペンセーショナリズムは、アルミニウス主義の一種である。

だから、ディスペンセーショナリズムを信じる今の福音派は、人間中心であり、聖書が教える神の秩序に対する反逆を教えている。

「神に愛される」ことを「神に仕える」ことの上に置く教えは、エデンの園におけるエバの思想であり、それゆえエバ教と呼べる。

同じキリスト教であっても、アルミニウス主義の福音派からリフォームドの教え、再建主義に転向することは、まったく異なる体系に移行することであるから、孤独になることを避けることは絶対にできない。

それは、家庭の中においてもしばしば起こる。

男性が再建主義になった場合に、奥さんが続いて同じ考えになることに障害が生じる場合がある。

もちろん、すんなりと夫婦そろって考え方を変える場合もあるが、夫が再建主義になり、妻が福音派に留まる場合に、亀裂が生じることがある。

その場合に、奥さんがいろんな影響によって悪魔に利用されることもしばしば見てきた。

しかし、これは、覚悟しなければならない道である。我々は、神を第一とする場合に、家族とも距離を置かねばならないこともある。

私は、ずっと家族が福音派だったので、両親や兄弟と疎遠にならざるをえなかった。

家族ですら、頼ることができない。そういった状況が生じる。

狭い門から入ったら、狭い道が続く。それに耐えることができなければ、救いに入ることは不可能だ。

頼れるのは、主だけである。イエスは、いつもあなたとともにいてくださる。

彼だけに信頼せよ。

 

 

2010年8月26日

 

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