改憲論議で浮き彫りになった「一と多」の問題4


「礼儀とか仁とか徳がなければ国は収まらないということを孔子が主張した。今の日本を見ると、学校の先生もジャージーのスポーツウエアを着て授業をするような、礼儀がない。紀元前500年前と同じような、孔子がやったようなことをやらんといかん時代なのではないか」(3月18日、松村龍二参院議員)

たしかに礼儀は必要である。そして戦後の日本は、礼儀が重んじられない国になった。
老人を嘲笑する、電車の中で化粧をするなど、これまで日本の歴史にはなかった現象であろう。

では、日本を儒教の国にすればよいのか。儒教は「一」の思想である。
封建社会を支えるには都合がよいかもしれないが、アメリカの自由な文化を知り、海外からの情報がたえず流入する時代に、儒教で国を治めることは不可能である。一度しめた味はそう簡単に忘れられるはずはない。

実際、昔ながらのやり方に固執する渡辺氏流の野球運営にあきたらなくて、優秀なプレーヤーがどんどんメジャーに流出しているではないか。もし儒教などの封建的道徳を憲法に入れるならば、国民は黙っていないだろう。反対が虚しいと分かれば国外に逃げ出すだろう。

このグローバリズムの時代において、やはりアメリカは思想においても指導者である。
アメリカの建国者たちは、たとえ不完全であったにしろ、自由と秩序を調和させるにはどのようにすべきか、優れた見識を持っていた。

憲法を改正するなら、もっと勉強すべきだ。見識を深めるために、近代市民社会を形成し、立憲制度を作り出したキリスト教を研究せよ。自国文化へのナルシズムを捨てて、冷静な目で、外国のすぐれた文化から学べ。憲法に手をつけるのはそれからでも遅くはない。

 

 

2004年4月30日

 

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